真白きだけの花火よ霞草

三十路で始めるロックンロール。いまだ売れていない天才(自称)バンドマンが語る音楽、文学、哲学、詩、料理、日々、あるいは旅。

瀬門春壱の「週報」6/8〜6/14

オールデイ・オールナイ働き倒してたどり着いたロックンロール・サーキット・イベントは朝から。どうにかシャワーだけは浴びてこられてラッキー、深夜二時くらいまで働き打ち上げの途中で離脱。
ザ・シックスブリッツのライブが凄まじく良く、「Too街PAIN」という曲で不覚にも落涙してしまう。例えばディラン、ニール・ヤング、あるいはルー・リード。そういう人たちが会得した音楽の魔法を確かに西島さんはこの日操っていた。
「音楽で世界が変わると思っている」と正々堂々と言い放つその様が凄まじい。そうだ、そうだよ。誰かが音楽のことを信じてやらないと。馬鹿みたいじゃないか、こんな世の中。息苦しいじゃないか。
 
 
西島さんは打ち上げでも誰よりも酒を飲み、ロックDJで踊る(そして流れる全ての音楽を知っている)。なんてかっこいい大人なんだろう!
 
酒を酌み交わし、音楽や哲学の話をしていると、「もっとシンプルな言葉で!」と言われて俺は思わずへへへ、と笑ってしまった。
 
 
 
 
二日酔いがようやく抜けた夕方に、コーヒーを飲みながらEric Kazを聴いていると、ふと自分の人生にはまだ想像もつかないようなとんでもなく美しいこと・素晴らしいことがたくさん起こるのだ、という予感が確信として俺に訪れた。霊的直感。キヨシローが唄っていた、「わかってもらえるさ」、いつかきっとわかってもらえる。僕らなにも間違ってない。もうすぐなんだ。
 
というわけで、「気の合う友達」であるダイキ率いるPaper Peopleのライブを観に行こうとしていたところ、辻君から飲みに誘われたので街に出で合流する。「(飲むのは)機材取りに来たついでやねぇん」と、尼崎在住の彼はわざわざ言わないでもいいことを言うが、まあ実際俺もライブ前に一人でどこか飲みに行こうかと考えていたところだ。冠位十二階の紫色くらい偉い貴族の俺たちが行く場所は当然「鳥貴族」と決まっている。
ビールを頼み、まあ飽きもせずロックの話をする。黒人のブルースと白人のロックンロール、リズムの解釈の違い(このあたり菊地成孔著『東京大学のアルバート・アイラー』のエルヴィスのくだりを読むとむちゃくちゃ面白いのでぜひ)、ブリティッシュとアメリカン、「ザ・バンドはディランのバックバンドやったから過小評価されてるねんなぁ」と辻君がまだ穏やかなうちは良かったが、しまいには「ロックンロールっていうのは結局形式にハマってるわけで、そこから逸脱するっていうのが『ロック』やねん。だからハード・ロックなんかせっかく逸脱したその形式にもう一度戻っていくのがやっぱりオモロないねんなぁ。まあ、俺が一番ロックやねん」などと言い始める始末。ロック一番の座を辻君に譲って店を出て、ライブハウスに向かう。
 
ライブハウスの中には悪そうな人・人・人。あら、こんなにお客さん来てるんか。というのが正直な感想。実はこの日のライブに自分のバンドも呼んでもらってたのだが諸事情で出られず。しかしどこを見ても悪そうな連中しかいなくて、苦笑しつつ酒を飲む。
ようやく陶然となってきたところでPaper Peopleのライブが始まる。この日のライブはむちゃくちゃ良かった。辻君はPaper Peopleが最後の出番だと勝手に思い込み(実際にはあと2バンドいた)、アンコールの拍手をしていた。
 
結局そのアンコールの拍手が周囲の飲んだくれ共に伝播、Paper Peopleはもう1曲やっていた。
 
 
ライブが終わったあとで、辻君が「ライブってこんな楽しいねんなぁ。俺、あんま観に行かんから。インディーズ・バンドもっと観に行こうの会しよやぁ」と今更訳の分からないことをダイキに言っていた。
 
「俺、一つ怒ってることがあるんですけど、いいですか」とダイキが俺に言う。
「ん、なに?」
「歌メロを作る時にね、ほら、あの、(そう言って彼は俺の歌を口ずさんで)ね、ここのメロディが絶対出てきてしまうんですよ」
そう言って笑うダイキは写真の中のロック・スターそのものだった。
 
ライブを終えて上機嫌の辻君と、街の駅前の「鶴亀八番」に飲みに行き、愛について話して別れる。
 
 
 
 
この歳になるといろんなことがあって、人の誕生日を祝うこともある(もちろん祝わないことだってある)。
そういう誰かの記念日には、やはり自分自身の来し方も含めていろんなことを振り返ってみようとするのだが、しかし過ぎた歳月を思ってみても、そこに含まれているはずのたくさんの人々はその中にはいない。
結局のところ、記憶とは自分で作り上げた風景であり、空間とは違い、誰とも共有することができないものだ。
つまりそれは事実ではない。そこにはもう自分自身しかいない。
だからいくらでも嘘をつくことができる。見立てることができる。自分だけの王国の中で、絶対にありえないはずの、誰もがみんな幸せだった瞬間が存在している。
それでいいのだ。
 
 
 
 
甲東園「バードランド」で朝から練習。新しい曲のビートが決まらず、かつて書き上げた曲を少し詰める。そのまま歌詞も書き換えてしまう。
 
「The Bell(鐘は三度鳴る)」
 
愛なんていらない そう言ってきた
それなのに二人は出会ってしまった
 
祝福の鐘が鳴って物語が始まれば
眠れない夜に花が開いて
 
そして幸せは続くと思っていた
だけど悪い星がヴェールを引き裂く
 
運命の鐘が鳴って物語が変われば
眠れない夜に罠が開いて
 
審判の鐘が鳴って物語が終われば
眠れない夜に穴が開いて
 
 
 
 
仕事終わり、社長、スタッフと飲みに行く。もちろん冠位十二階の紫色くらい偉い貴族の俺たちが行く場所は当然「鳥貴族」と決まっている。
各々の音楽のルーツの話などする。というかまあ俺が一方的に喋り倒す。いつものことだ。失礼!
 
 
 
 
酒響き、書き物と学習進まず。なんとか仕事をこなし、帰宅して掃除炊事洗濯をこなす。休みの日はいつも片付けで潰れてしまうが、片付けることによって自身の心も落ち着くので良し。
めずらしく同居人と休みが合致したので、馴染みの人がやっているという近所の居酒屋へ飲みに行く。馬鹿みたいにでかいたこぶつと赤ウインナーをアテにビールを二杯。
 
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壁に貼ってあるサインなどを見渡していると、棚のところになにやら文字が書かれた紙が貼ってある。
 
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人酒をのみ
酒酒をのみ
酒人をのむ
 
なんとすごい言葉だろうか。人という器に酒が注がれていき、やがてそれが満たされると(例えばコーヒーが入っている状態のコーヒーカップのことを単にコーヒーと呼称するように)酒が酒を飲み、しまいにはその酒に人の部分が飲まれる。深淵を見つめるとき、などと大仰なことを言っているニーチェが馬鹿みたいではないか。そんな難しいことを言っているからツァラトゥストラの声に愚かな民衆は耳を傾けようとしないのだ。
しかしこの言葉は凄まじい。例えばこれをこう書き換えることもできるわけだ。
 
人歌を唄い
歌歌を唄い
歌人を唄う
 
なるほど、と思う。「人歌を唄い」では、主格は人にあり、歌はあくまでも唄われるものであり、唄うという動詞の対象としての目的語だが、やがて歌が人の中に入り込んでいき、その歌が歌を唄う状態になる。
そしてしまいには歌に自分が唄われるのだ。この感覚はとてもよく分かる。
この言葉に出会えただけでもこの店に来た甲斐があったというものだ。
 
 
そして、帰ってきてまた家で飲む。なんだか今週はずっと飲んでるぞ、おい。腕によりをかけて料理を作る。この日のあんかけレタスチャーハンは本当に神がかっていた。
気づけば同居人は酒を手にしたまま酔いつぶれていたが、俺は流れてくるジッタリン・ジンの音楽に確かな青春の痛みというものを感じていた。