真白きだけの花火よ霞草

三十路で始めるロックンロール。いまだ売れていない天才(自称)バンドマンが語る音楽、文学、哲学、詩、料理、日々、あるいは旅。

瀬門春壱の「週報」6/1〜6/7

神戸某ライブハウスにブッキング・マネージャーとして入ったのは約二年くらい前で、やめといた方がいい、やめといた方がいいという頭の中の声を遮って始めたところ、まあこのご時世やっぱり大変で、連絡は常にひっきりなし、そしていつまでも終わらない夏休みの宿題を(31歳にもなってまだ)抱えているような感覚に苛まれて、ああやっぱりやめといた方が良かったあ、なんて思うのだが、もちろんやってよかったことだってある。
そのうちの一つが、というか理由なんて一つしかない、それは人との出会いで、神戸某ライブハウスは本当に俺にたくさんのチャンスをくれたのであって、ルースターズ大江さん、花田さん、スターリンミチロウさん、あるいは頭脳警察PANTAさん、Syrup16gキタダマキさん、中畑さん、AL長澤さんetc…と、自分が憧れていたミュージシャンと出会い、時には共演させてもらったことはまさしく人生の宝なのだが、行き場のないどうしようもない、あのころの己のようなごろつき・いまだ無名のアーティストたちに出会って、何人かとプライベートで遊ぶほど仲良くなって、恥ずかしいことに「藁科組」と名乗ってくれている連中がいて、やはりこいつらも、いやこいつらこそが自分の人生の宝だと思っている。ちなみに藁科組でまともにバンド活動ができているヤツらは今ほとんどいない。推して知るべし。
 
で、そんな藁科組の若頭(しかし俺よりも年齢が上なのでいつも敬語混じりのタメ口で混じっては気まずい思いをしている)バカ力というユニット? なんだ? あんまりよく分かっていないが、のボーカル山下さん通称オジキが甲東園にあるバードランドを買い取り、 何人か藁科組の人間も雇って(employ)リニューアルオープンするのだという。その記念パーティーをやるので一曲唄いに来て下さい、と誘われたので三ノ宮の地下にある「幸福源」というまったく幸福そうでない中国人二人がやっているバカ安中華で本を読みつつ(ここの上には古本屋がある関係からか、本を読んでいる人が結構多い)、ビール・ハイボール・からあげ・餃子しめて1000円で仕上げてから(ハイボールはただの水割りだった)駅前のスーパーで花とワインとウイスキーを買い、バードランドに向かった。
 
中はすでに催しが行われていて盛況、ウイスキー(「バードランド」という名前にちなんでワイルドターキー)を若頭に渡した後は組員のケント(つうかコイツはメンバーだが)、奥谷、コーイチローなんかと談笑しつつ、持って行ったワインをボトルのまま飲んでいると、たまたま来ていたNUTO乾さんを見つけてテンションがぶち上がり、歌を唄ったり車に乗って(もちろん後部座席)買い出しに行ったりしている途中で意識は消失、おそらく電車を何往復かしたあと、どうにか自分の家に帰ると、一週間に一度しか返ってこない同居人で写真家のIが帰っていた。挨拶を交わして無理やり話に付き合わせて勝手に就寝。
 
翌朝目覚めて、少し今後のことを打ち合わせ。マンデラエフェクトについての話もする。
マンデラエフェクトとは、南アフリカの偉い指導者マンデラが死んだ時期を、どうしてなのか大多数の人が勘違いしたことに由来する造語で、例えばピカチュウのしっぽの先って黒じゃなかったっけ? などという問題がよく知られていて、は、眉唾、なんて思いつつもC3POの足が片方銀色だったのには驚いた。いや絶対全身金色やったやろ。
 
世界線が変わる。というような冗句はex.DAISY LOOの谷くんと毎晩のように言い合ったものだが、選択によって未来は形作られる。と信じていた方が、生というものに対して前向きな気持ちを持つことができる(運命論はどうしても悲観的になってしまう。その最たる例はニーチェの永劫回帰で、まあこれが悲観的というと超人思想などのこともあり、一概にそんなことも言えないのであるが、しかしこれはやはりとてつもなく絶望的なことであると思う。もちろんそこに救済を見出す、という考えも分からなくはないのだけど、『CROSS†CHANNEL』で育った身としては、とここまで書いて、しかし黒須太一こそまさに超人そのものでなかったか、と考え始めているのでこの括弧の中のことはなし。忘れて下さい。「絶望を確認することが希望だ」by黒須太一)ので、俺はあながちマンデラエフェクトがデタラメな現象ではないと思っている。
 
空の色も風の強さも星の輝きも人の気持ちも毎日変わっていく。何一つ分からないこの世界で、神のみわざを疑うことほどおかしなことなどないではないか。
 
いつものようにIとこんな訳の分からない話をしつつ、新開地にある「八喜為」で昼食を取り別れる。
 
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二日ほど連続で予定がなくなったので、Syrup16gの全アルバムレビューを書き始めたのだが、これがちっとも終わらない。その上労力のわりに全然反応がないので、いつも洋楽レビューを書いている辻くんの切なさ・虚しさを身を持って味わっている。
しかし「いいね」を押してくれている人たちを見て、ああこの人たちに読んでもらえたのなら書いてもよかったな、と思っている。
ただ、時間がない・ないなどと日頃のたまっているわりに俺があんな長文を書き始めているので仕事仲間はこの頃俺に疑念の眼差しを向けているが、違うの、人に差し出せる俺の時間がもうないの。おじちゃんの時間はね、もうとっくに使い果たしてしまったんだよ。
このままじゃ俺はなにも成し遂げないまま死ぬ。そう、今俺はあれだけ俺を悩ませてきた失恋・別離などというものには縁がなく、代わりにあの芥川を自殺に追いやった「漠然とした将来の不安」とやらと戦っているのである。
(なにも成し遂げない、というのはもちろん他人の物差しではなく己の物差しであって、そりゃ歌も唄ったし文も書いたが、自分はここで死んでしまってはきっと後悔するに違いない、とつまりこれはそういう話である。限界なんてこんなもんじゃない、と天才の友人が昔書いた楽曲の歌詞を思い出している。サンキューロックと言える日が来るのか俺に。いやそれはいつも言っているけれど。)
 
 
 
 
昨夜は「みらん」という、MV撮影にも関わったアーティストがライブハウスに出ていたのだが、まあ彼女の唄の凄まじいこと。
重力から解き放たれて、天衣無縫という言葉がふさわしく、あああれだけ自由に唄えたらどんな気分なのだろうか、それに比べて自分の唄のなんとぎこちなく苦しいことよ、しかしまあそこがお前のいいとこやんけ、というかそう言うしかないやんけ、ほらっ凡人は凡人なりに頑張る! と自分を甘やかし&叱咤する俺だった。
 
 
 
 
 
今朝ごぼうをささがきにしている時に『マタイによる福音書」に書かれている「後のものが先になり、先のものが後になる』という逸話の意味がはっきりと分かった。
ごぼうたちはみな等しくささがきにされる運命にあるのだが、そこでどのごぼうを最初に選ぶのかは俺=神の意志(俺が神そのものだと言っているのではなく、これは例えである)であり、しかし最初にささがきにされたごぼうも最後にささがきにされたごぼうも一つの鍋の中で炒められて同じきんぴらへとその姿を変える。
これはまさしく『マタイにより福音書』に書かれているぶどう園と労務者の逸話そのものであり、バロウズがヤーへ(このドラッグの名前がヤハウェに似ているのはおそらく偶然ではあるまい)を求めてたどり着いた村の長老が「あらかじめ全て許されている」と言ったのもつまりはこういうことだったのだ、と俺は気づき、しばらくごぼうをささがきにするのをやめてうんうんと一人頷き立ち尽くしていた。
 
 
 
 
季節が呼び起こすのか、あるいは夢か。俺は俺を裏切ったり、あるいは傷つけた人たちのことを結局のところ誰一人として許していないことに最近気がついたのだが、その気がついた時に訪れた不思議な安堵にも似た気持ちこそ、大いなる許しの中に含まれているのだと思った。
 
そう、そんなに簡単に人は人のことを許せない。それでいいのだ。俺もまた誰かから許されていないはずだ。
そういう憎しみや苦しみだって、もしかしたら俺をこの世に繋ぎ止めておくエネルギーなのかもしれない。憎まれっ子世に憚る。それならもっともっと憎んでくれたっていい、俺はまだまだ長く生きて、この世界に隠された神秘の深奥を少しでも覗きたいのだ。
 
 
 
 
6月はライブがないので楽曲制作、7月は5日に尼崎、8日に神戸、12日に東京八王子と決まっている。今目の前にいる人が常にすべて。よかったら遊びに来て下さい。