真白きだけの花火よ霞草

三十路で始めるロックンロール。いまだ売れていない天才(自称)バンドマンが語る音楽、文学、哲学、詩、料理、日々、あるいは旅。

瀬門春壱の「週報」5/25〜5/31

久しぶりに古巣の万葉倶楽部という温泉施設に遊びに行く。
俺はここで何年間かデシャップという、厨房とホールをつなぐ仕事をやっていて、毎日ひたすら御膳を組み上げては客のクレームをさばき、キレやすい厨房の人間に上手に伝え、時には伝えられず火山が大噴火(おジャ魔女どれみ)することもあったが、それでもまあわりとよく働いていたし、料理人からはかわいがられていた。
金も良かったし、仕事終わりには温泉も入れるわでいいことづくめだったように思えるこの仕事もしかし、降り積もる心労のせいなのかインカムのせいなのか、次第に街を歩いているとやたらと他人の会話が気になるようになり、夜は心臓がバクバクして全然寝つくことができなくなり、やがて職場まで向かう気力すら失った。
これはまずいと年の暮れに心療内科に駆け込み、処方箋を飲んでいたのだが、どこかで糸がプツンと切れたのだろう、結局なかなか容態が良くならずにそのまま辞めてしまった。(ちなみに心の問題は瞑想に取り組むことによって改善した。本当か?)
 
岩盤浴に入り、入るっても石の上で寝転ぶだけだから変だな、そもそも暖かい石の上で寝転ぶことをありがたがっている我々を見たなら、例えばパプワニューギニアの人なんかは笑うだろうか、わはは、あんなものに金を払ってるなんて、なんてね、これよくない? よくないコレ? 頭の中で唄うオザケンfeat.スチャダラパーはそのままにしておき、石の上にも三年、ではないが目を閉じてじっくり汗をかいていくうちに訳の分からない雑念・湧き上がる自我はどこかに消え失せてしまって、それこそ瞑想に近い状態に突入していくのが分かる。息を吸って、吐いて。鼻から通り抜ける息だけを意識する。これはヴィパッサナー瞑想。
俺は疲れている。俺は疲れているのだ。だから俺は休んでいる。俺は自分を労っている。俺は、俺は、俺は。
 
鈍い鉛のような思考を手放し、風呂から上がって飲むビールの美味さは格別だ。
アルコールは身体に悪い。そんなことは分かっているのだが、身体に悪くてなにが悪い? という気持ちだ。
しかしここは飲み過ぎる前に退散。偉いぞ俺。と、自分を褒めてやるのは自分以外に誰も褒めてくれないからである。
 
 
 
 
楽しみにしていた「いつまでも世界は…」に出演するため、京都に行った。
電車に乗ったのはまだ朝の10時くらいだったのだが、もうベースのちーまこは酒を飲んでいた。
「アル中ちゃうん? 今から飲んで演奏できるんけ?」と俺が言うと、「旅行みたいなもんなんで」と言うので、「いやでもほら、演奏する時は飲まへんのが一番ベストちゃうかったっけ?」と返すと、「大丈夫です。ええ、もちろん酒を飲んでいない状態が一番いい状態です。ただ出番が早いので仕上げておかないと、僕、雰囲気に飲まれちゃうんですよ。そうなると良くないじゃないですか。ただ、ほろ酔いにしときますね」などと訳の分からないことを言って買ってきたのが普通にビールだったのを見て、ああこいつ、アル中やわ。アル中、ちゅうかアルコール依存やな。薬理としてアルコールを求めてる。はは、終わりじゃ、と俺は思っていた。
 
京都に着き、出番が終わり、新しく入ったギターのケントとブラブラ街を歩きながらライブを観たり、本屋に立ち寄ったり、喫茶店に入ったりして(驚異的な暑さだった)遊んでいると、ULTRA CUBのカーミから連絡があったので合流する。
「明日誕生日なんですよ」とカーミが言うので、もう放っておけない、二人で居酒屋に飲みに行く。
カーミが田中ロミオの名前なんて出すので(そう、俺は熱狂的な田中ロミオ信者で、山田一名義の「加奈〜いもうと〜」「家族計画」「星空⭐︎ぷらねっと」はもちろん「CROSS†CHANNEL」「最果てのイマ」どれもこれも俺の人生に多大な影響を与えたゲームだ)盛り上がり、終電を逃してしまったので、カーミの家に泊めてもらうことにする。
 
カーミは事故物件に住んでいるのだが、住み始めたその日から毎晩誰かが部屋をノックする。
それが明らかに友人のノックではないので出ないようにして、一体どういう事故物件なのかを不動産会社に問い合わせると、「認知症のおばあちゃんを障害のある息子が殺した」部屋なのだという。そして、その息子は事件の のち、行方をくらましている、とのこと。
その翌日、ノックはなくなり、不動産会社から「息子が逮捕された」と連絡が入ったのだという。
怖すぎるやろ、と俺はワクワクしながらカーミハウスに入った。
荒れていた。すべての行き場をなくした青春がこの狭い部屋(すまん)の中で渦を巻き、怨念と結びついていた。
風呂場にはなぜか小銭が散乱し、先に眠ったカーミはずっとうんうんうなされていた。
あかんやろ、これ。こうなった己が身をこそ呪いながらどうにか眠りに就いたのだが、夢か現か分からない状態で誰かが部屋の中に立っているのを見た。俺はおとなしく布団をひっかぶって目を閉じた。
 
 
 
 
いつせかの翌日は神戸にてライブ。
俺の大好きな石田さん率いるイナズマクラブ、ヒロトやキヨシローの横でギターを弾いていた山川のりをさん、マーガレットズロースの平井さんのバンド。と、なかなか年齢層高いイベントだったが、すさまじくクオリティの高い夜だった。
朝まで辻くん、見に来てくれた松山さん、それから社長と痛飲。むしろ鯨飲。翌日は昼まで眠り、仕事。
 
 
 
 
せっかくスポティファイに登録しているので、好きなアーティストの一枚目のアルバムから順に聞いていっている途中で、再びニール・ヤング『渚にて』に出会った。
歳をとったせいなのか、昔よりもよくニール・ヤングがよく分かる。いや、音楽のどれもが、昔よりも確かに奥行きを持って響いてきて、なにを聴いても感動してしまう有様なのだが(そう、確かにロックが時代を変えようとする一つの手段だったころがあった。ロックが王様だったころ)、とりわけ『渚にて』は人生の一番ボロボロだった時期(まあ、ほんの最近まで俺の人生はずっとボロボロだったのだが)によく聴いたアルバムで、一体どうして人種も年齢も住んでいる場所も言葉も違うニール・ヤングの作った音楽が、そのメロディが俺の胸をこれほどまでに打つのだろう、と思う。
このメロディに感動する、ということは、そのメロディを理解する力があるということで、つまり俺とニール・ヤングの間には同じものを美しいと思える、共有できる価値観があるということだ。
それをカーネーションの直枝さんが、『宇宙の下着、たましいの柳』で「ロンサム」だと表していたが、なるほど、「ロンサム」であることを振動に置き換えたのがニール・ヤングの音楽なのかもしれない。それはもちろん、ディランにもルー・リードにもジョンにもある部分なのだけど。
 
この世の中のあらゆるものは振動である。
 
言葉でだけ理解していた理が、天啓! 稲妻を伴って俺を貫く。
届かないが、隔たっているが、同じものを見ている。星を見よ! 誰のものでもないあの輝きが今、夜天から地に降り注ぎ、確かに俺たちは一つの空間に含まれているではないか。溶け合っているではないか。
 
音楽を、文学を、映画を、ありとあらゆる芸術を、あるいは「夢」という回路を通じて、俺たちは心の中にあるもう一つの世界にアクセスすることができる。
 
寂しいことなどなに一つない。いつだって、誰とだってまた会えるのだ。
 
ついこないだ誰か、バンドの子が弾き語りでムーン・リバーを唄っていたが、それを聞いて俺は死んだ祖父がその曲をとても深く愛していたことを、葬儀の時に流れたことを思い出した。俺の死んだ祖父はルー・リードに似ていた。
そしてとてもハンサムで「ロンサム」だった。
 
だから、それまではぽえむを書くのさ。