真白きだけの花火よ霞草

三十路で始めるロックンロール。いまだ売れていない天才(自称)バンドマンが語る音楽、文学、哲学、詩、料理、日々、あるいは旅。

都築響一『夜露死苦現代詩』


夜露死苦現代詩 (ちくま文庫)

 

まあこんなことをあけすけに言うのもなんだが、狂っている人間が好きである。芸術的に狂っている、とかそんなものにはまったく興味がなく、例えば先日新開地のファミリーマートに夜中立ち寄った時の話だが、オッサンが金を払おうとして財布から金を出し、それをレジに置いた時に不要なレシートを入れるあのクリアなケースがオッサンの手に当たって動き、オッサンの足元に落下した。イテ。そう呟いてオッサンがなにか訴えかけるようにレジのこれまたオッサンを見るが、まあそれは残念ながらオッサンの自業自得である。レジのオッサンはなにも言わずにオッサンの出した商品をスキャンし続けた。

するとその冷たい態度に(まあ普通なのだが)突然ブチ切れたオッサンが、「ああ、お前、おい、こら、こらあ! なめとったら殺すぞ? おお、おお!?」と最初60デシベル、後半120デシベルくらいの大声を張り上げてレジのオッサンを脅迫し始めた。

オッサンの後ろにはオッサンが並んでいて、その後ろには俺つまりオッサン、その後ろには中東系の外国人のオッサン、オッサンゲシュタルト崩壊、まあとにかくたくさんのオッサンたちが並んでいて、善良なオッサンたちの気持ちはこの時一つだった。なんでもええからはよせえや。こっちは疲れて並んどんねん。一字一句間違いなく、俺たち善良なオッサンはこう思っていた。あと、ああいう迷惑な人間は死んでくれ。ひどいようやけど。とも思った。ユングのシンクロニシティという概念の実在が証明された瞬間だった。

さらにシンクロニシティの実在を裏付けるかのように、先頭のブチ切れオッサンは振り返ると、後ろに並んでいる俺たち善良なオッサンたちに近づいてきて、「なんじゃ、おお、こら、殺すぞ! 殺すぞ!」と叫び、そのままゆっくりと開く自動ドアに蹴りを入れて外に出て行った。

脱法ドラッグでバッドに入ったアニマル浜口みたいだった(見たことないけど)。

前のオッサンが俺に振り返り、たまらんなあ。という苦笑いを浮かべたので、俺もたまらんなあという苦笑いを浮かべると、レジのオッサンが、いやホンマに。という顔を浮かべていた。

一人の狂人が俺たちに団結と調和をもたらしたのだ。

 

ここ最近おそろしく平和な毎日を過ごしていて麻痺していたが、伊丹・稲野(ほとんど尼崎)に住んでいた十代の頃や、十年前の三宮の夜の街ではしょっちゅうトラブルが起こっていた。

そして、ほとんどが飲みすぎた酒のせいだったとしても、俺はよくそういういざこざに巻き込まれた。

そんな時、つまり危険を感じた時こそ、どこかゲームのように客観的に出来事を見つめて泰然自若に振舞おうとする癖がついた。

のめり込むと、自分の恐怖に飲み込まれてしまうからなのだろう。

 

人間がいて、感情がある。しかし、狂気に飲み込まれるということは、自分が自分を喰らい尽くし、塗り潰すということで、これほどおそろしいことはない。

狂気とまでいかずとも、喜怒哀楽、感情に飲み込まれている時というのは、自分が生みだした感情に自分のコントロールを乗っ取られているわけで、我を失う、などと言うわけだが、それならば我が失われている時に代わりに我を操っているものは一体なんなのか?

 

そういうことを考える人間が、この本をぱらりとでもめくってしまったら、そりゃあ飲み込まれるしかないワケで、まず開いた第一章、介護助手として働く人が聞いた痴呆老人たちの言葉が紹介されていて、これが稲妻のように美しいフレーズばかりだったのだ。

例えば、

 

目から草が生えても人生ってもんだろ

 

俳句調の、

 

あの夏の狸の尻尾が掴めなくって

 

あるいは、元・電気屋主人が言う

 

オムツの中が犯罪でいっぱいだ

 

という言葉はその逸話もまた凄まじい。

 

なんと彼のオムツの中にはギャングが集結していて、麻薬売買を行っているので、オムツの中に盗聴器を仕掛けているところだと言うのだ。イヤな予感がして、直崎さんがオムツをあけてみれば、中には三日間も出ていなかった便があふれかえり、補聴器がその中にしっかり埋まっていた……。

 

と、こういうことを書くと、精神的におかしい人を馬鹿にしているのか、などと昨今の日本では言われかねないのだが、まあそんな馬鹿は放っておいて、この元・電気屋主人の一見意味不明な言葉は、確かにオムツ内における現実的なピンチとリンクしていて、その現実が彼の中で狂気を通じて変容していく様に興味が有るだけだ。

 

読んでいるだけで眩暈がしそうな質問に答え続けている、ネットで有名な林先生のコラムを読んでいると、病識はないが病感はある。という言葉が出てくる。

 

kokoro.squares.net

 

このとんでもない質問の内容には触れないが、つまり病気だと思ってはいないのに、どこかで自分は病気かもしれない。と感じている状態がある、ということだ。

 

封じ込められた本来的な自分自身の声が、助けてくれと救いを求めている。しかし今や乗っ取られた正気、乗っ取った狂気を通じてしか、外部に語りかけることができない。

外部の現実と内部の現実に、狂気がねじれを起こしいるのだ。

 

だとするならば、末期癌の老人がモルヒネの幻覚の中で口にした、

 

あんた、ちょっと来てごらん。

あんな娘のアゲハ蝶が飛びながら

どんどん燃えてるじゃないか…

 

 

という言葉は、一体どんな内的現実が変容したのだろうか。

そして、これよりも美しく壮絶なイメージを、一体何人のミュージシャンが紡げるのだろうか。

 

 

全体的にとても興味深い本なのだが、やはり第一章と、それから死刑囚の俳句を紹介している第七章が頭一つ抜けて面白い。

 

綱よごすまじく首拭く寒の水

 

叫びたし寒満月の割れるほど

 

キラメルで蝿と別れの茶を飲んだ

 

こんな俳句たちははっきり言って空前絶後で、思わずううむと唸ったあとで、お前は果たして生を、ここまで全うしているのだろうか? あの最悪のトラブルだけがお前を取り巻いていたあの頃こそがお前の人生で最も輝いていたのではないのか? などという自身の言葉に首を振り振り、俺はもう狂気になど飲み込まれやしない、そんなギリギリのフチに降りていくにはあまりに歳を重ねすぎた、長生きをするさ、と思いながら、冬から春に移り変わろうとする朝の料理屋の静けさを胸いっぱいに吸い込んで、それから、お、思いついた、とひねった一句。

 

鍋底の鰤の目にも仏宿る

 

とか言ってね。まあなんとかね、上手いことね、俺も生きていきますよ。野望はまだまだ燃えてますよ。お粗末様でした。