真白きだけの花火よ霞草

三十路で始めるロックンロール。いまだ売れていない天才(自称)バンドマンが語る音楽、文学、哲学、詩、料理、日々、あるいは旅。

磯崎憲一郎『終の住処』

俺が住んでいるこの街、湊川及び新開地・その周辺は、三宮が発展するその前にはかつて神戸の中心地だったらしく、現在でも至る所にその名残が散見されるのだが、最も老朽化が進んでいるのは街を歩いている人間で、その大半がおそらく齢六十前後の高齢者で、杖をついていたり、そんなものは必要ないのか堂々とびっこをひいて歩いていたりする。

 

が、しかし死にかけているはずの彼ら・彼女らはその実とてもエネルギーに満ちていて、挨拶を交わしたり、今も活気溢れる東山商店街で買い物をしたり、パチンコに勤しんだり、真昼間から酒を飲んだり、このご時世だというのにくわえ煙草で肩で風を切っている。

 

大声で奇声を発している人間を見かけるのもしょっちゅうで、今日も自転車を漕いでいると道の反対側で「おお、こらぁ! 殺すぞ、ボケ、おお! なんじゃ、おお!?」とものすごくでかい声を上げながら一人で虚空に突進しているおっさんを見て笑ってしまった。

 

そういう諸々の様を見て、ふと俺はこの街に越してくる前に読んだ磯崎憲一郎の『終の住処』を、そのタイトルを思い出した。

 

 


終の住処 (新潮文庫)

 

なんの説明もないまま突如挿入される意味があるのかないのか分からない謎のエピソード(沼の場面で現れるヘリコプター)、あまり改行されることもなくびっしりと埋められてゆく余白、突然妻と十一年間話すことがなくなる、というようなことを捕まえてマルケスの影響だと言うのは易しい話で、水平的な時間軸、つまり過去→現在→未来というのは一見不可逆なものに見えるけれどもそうではなく、これを一匹のウロボロスだと見立てるならば(俺が勝手に見立てたんだけど)、未来が過去のしっぽを咥えることによって循環構造になるのではないか、とそういう恐怖が書かれている。

 

植物の種子のうちに草が芽生え、花咲き誇り、やがて枯れる可能性が内包されていることをよく見つめるがいい、というようなことをシュタイナーという神秘学者が言っていたが、結婚という種子にやがて崩壊というものがすでに含まれているのだとすれば、妻が話さなくなったのは崩壊というものに対する先取られた復讐であり、なぜ崩壊が起こるのかというと、主人公は結局のところなにも見えていなかった、つまるところ彼が見たと思っていたのは自分の考えだけであり、彼が目を向けるべきだったのは「目の前の両開きの扉が開き、まぶしい光が射した」、太陽の方ではなく、「自らの力で銀色に輝き始め、不思議なことに雲よりも近く手前にあった」月の方だったのだ。

 

いくつもの短い、詩的な物語(レシ)の積み重ねでできている、と言ってもよいこの小説を読み終えて、自らの人生を振り返る時、よく考えれば負けじ劣らじと謎だらけで、俺は今もなにかを見落としているのかもしらん。しかしそれは一体なんなのか分からず、諦めて誕生日にもらったジンをちびっとだけ飲んだ。

俺もやがてこの土地に沈むのだろうのか。終の住処。破滅の街。

 

大切であればあるほど、近くにあればあるほど対象は見えなくなってゆく。

あれほどくっきり果実だと分かったその輪郭も消え、今やぼんやりとした色彩だけがこの目に残るのみだ。

しかし愛し抜け。安心しろ。うつつを抜かせ。そしてやがていつかそれを失った時にこそ、お前はお前が手にしていたものの輪郭を再び見つけるだろう。