真白きだけの花火よ霞草

三十路で始めるロックンロール。いまだ売れていない天才(自称)バンドマンが語る音楽、文学、哲学、詩、料理、日々、あるいは旅。

舞城王太郎『山ん中の獅見朋成雄』

本当に好きなものを語りたいのなら、そこには逸脱が含まれる。

もしあなたが本当に競馬のことが好きならば、馬それ自体のことはもちろん、血統、あるいは騎手、果ては日本とイギリスの文化を比較するところまで話が及ぶことだってあるかもしれない。

だからまあ、こうして小説のことを書く時、いわゆるブック・レビューのようなことは俺には書けない。酒を飲み、くだを巻きながらあなたの目の前で語り、逸脱していく。

そんな場面をイメージしながら読み進めて欲しい。できれば、ビールの一杯でも飲んだあとで。

 

さて。いきなりズレたところから話を始めるが、ロックンロールの偉大なる詩聖の一人である、ご存知ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのフロントマン、ルー・リードは、若かりし頃にはT.S.エリオット以来の天才詩人と呼ばれたこともあるデルモア・シュワルツという大学の講師から詩作の秘密を学んだ。

 

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ルー・リードのマインド・ツリー。村上春樹・柴田元幸らが訳した『and Other Stories とっておきのアメリカ小説12篇』という本で、シュワルツの「夢の中で責任が始まる」を読むことができる(ちなみにこのモチーフは、村上春樹の中期の頃の小説――『ダンス・ダンス・ダンス』や『スプートニクの恋人』辺りに何度も登場したように思う)。

 


とっておきのアメリカ小説12篇 and Other Stories

 

余談だが、ルー・リードの『Blue Mask』という、1982年、彼のソロ活動中期に発表した名盤(さらに余談だが、このアルバムはいたく町田康が気に入っていた)の1曲目「マイ・ハウス」の歌詞では、穏やかな曲調とは裏腹に、二人目の嫁さんのシルヴィアと一緒に亡きデルモア・シュワルツをウィジャ盤(降霊術に用いるオカルト・グッズ。こっくりさんのようなものだ)で呼び出そうとしているとんでもない光景が書かれている。

 


BLUE MASK-NEW VERSION

 

名前が出てきたのでついでに書いてしまうけれど、村上春樹・町田康・それからなんといっても中島らも(そういえば彼もまたルー・リードに対しての愛をいたるところに書き散らかしている)が十代の俺にとってスターであり、二十代の頃の俺は、いかにして彼らの文体の呪縛から逃れることができるのかに苦心してきたし、そのためには彼らのマインド・ツリーを知らなくてはいけなかった。

 

村上春樹ならばフィツジェラルド、チャンドラー、カーヴァー、ドストエフスキー、ヴォネガット、カポーティー、サリンジャー、etc、町田康ならば、、、誰かな、ちょっとパッとは思いつかないけれど織田作之助や筒井康隆、それから車谷長吉、中島らもならばヘンリー・ミラー、バロウズ、マンディアルグ、ブルトン、稲垣足穂、etc……。

 

そうやってさかのぼればのぼるほど、俺は自分の文体を見失い、なにも書くことができなくなっていた。

 

そんな頃だった。俺が舞城王太郎のデビュー作『煙か土か食い物』を読んでブッ飛ばされたのは。

句読点の後ろはスペースを空ける。というルールを完全に無視して改行すらほとんどなく(しかしまあルー・リードがロックの歌詞にタブーとされていたSMや同性愛の要素を持ち込んだように、それは力ある芸術の証拠だ)、みっちりと詰め込まれたその文章は、しかし今まで見たことのない前のめりのグルーヴ、つまり圧倒的なドライヴ感に乗っかって、ページの最初から終わりまでノン・ストップで驀進するのだった。

 

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もちろん、上記の対談に書かれているようにモチーフやガジェットはサリンジャーのグラース・サーガ、あるいはアゴタ・クリストフ『悪童日記』はもちろん、背の高い兄弟の描写はオースター『孤独の発明』から確実に引用されているし(ロジェ・ニミエの本は未読だが)、そもそも文体も含めて、舞城自身が翻訳することによって露悪趣味的にバラしているトム・ジョーンズからの影響が強く見受けられる(まあ、舞城を読むまではトム・ジョーンズは読んでいなかったので、これは正直なところ後出しジャンケンだけど)、というか、まあ『拳闘士の休息』に収録されている「蚊」をまんま引き延ばしただけ、とも言ってしまえるっちゃあ言ってしまえるんだけど、

しまえるんだけど、

  


拳闘士の休息 (河出文庫 シ 7-1)

 ※ちなみに元ネタのトム・ジョーンズもどえらい面白いです。

 

なによりも俺は、そんなことがどうでもよくなってしまうくらいの舞城が持つ速度・ビート・ドライヴに参ってしまったのだった。

  


山ん中の獅見朋成雄 (講談社文庫)

 

で。今回読んだ『山ん中の獅見朋成雄』は、オリンピックを目指せるほどの駿足を誇っていた成雄が、成長していくにつれて生えてくる背中の鬣のような毛と、おそらくそれに伴うことになるだろう世間の奇異の眼差しに嫌気が差し、陸上を捨てて山の中にいる書家に弟子入りするうち不思議な事件に巻き込まれていく……という筋書きの小説で、Amazonレビューにも指摘が散見されるように『千と千尋の神隠し』がモチーフになっているのだが、舞城特有のビート感はもちろん、きっちり平気で残虐な描写だって入れ込んでくるし、「しゅりんこき」なんていうオリジナルな擬音もふんだんに盛り込まれている。

 

しかし、俺が引っかかったのは、ドライヴを追求する、ということは、風景、その諸相は加速度と共に後ろにスッ飛ばされて見えなくなってしまうものなのだが、この小説では明らかに意図的に風景の描写が丁寧に書かれている。

 

幅広い路地の片側の、背の低い四つ目垣の向こうは竹林になっているのだが、モヒ寛の手入れが行き届いているので、低い、余分な枝は打たれてあって一本一本がすっと伸びていて、足元も下草はなくて薄茶色の、去年やら一昨年やらの落ち葉が敷き詰められていて林の奥まで竹の千本が見渡せる。反対側には茶室が作られてあって、配置されたたくさんの石の奥にドカンと大きな岩が大胆に置かれて他を圧していていかにもモヒ寛らしい。庭のそこかしこに植えられた背の低い楓の繊細な枝振りが鮮やかな緑のモザイクを作って粗野な石を包み込み、石と楓だけで、押し迫るような静けさを作っている。茶庭の端にはつくばいがあって、ここに星の里から引っ張ってきた水が垂れている。

 

村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』もやはり風景描写が全然違っていて、引っ越しの荷解きが終わっていないので段ボールに詰め込まれた本の中からピンボールを探す気力がないので割愛するが、とにかくどうやら作家には意識して風景描写を特訓する時期があるようで、というのは、保坂和志もまた、風景という並列を文章という直列に変換することが大切である、というようなことを言っていて、まあこんな感じでだんだん話が漠然となってくるのは疲労が蓄積して眠気が近づいてきたからなのだが 笑 、まあようするに、景色の描写に力を入れて読者の頭に入力することで、後半の疾走が生きてくる、つまり頭の中にイメージされた景色がスッ飛んでいくリアリティがそこに生じるのだ、と舞城が考えたのかどうかは分からないが 笑 、とにかくこの小説において風景描写がなんらかの意図を持って強化されているのは間違いないだろう。

速度を増すごとになにかを置き去りにしてしまうように、純粋な疾走は、スピードは、ただそれだけで哀しいものなのだ。

 

文体もさることながら、この小説は、喪失によって成雄に訪れるイニシエーションと異性によってもたらされるアイデンティティの確立、という横軸に対して、書道や人盆という、、、まあこれは読んでもらわないとなんとも言えないのだが、ある種究極の芸術論が縦軸で展開されるのだが、むしろここが読みどころだろう。

 

それともう一つ。『山ん中の獅見朋成雄』には『SPEED BOY!』と『獣の樹』という、続編、、、というかパラレルワールドがあるのですが、そのことについて考察しているブログがとても面白かったのでリンクを貼っておこう。

千と千尋、ではないけれど、どうやら一連のサーガは、名前を巡る物語でもあるようだ。

 

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