真白きだけの花火よ霞草

三十路で始めるロックンロール。いまだ売れていない天才(自称)バンドマンが語る音楽、文学、哲学、詩、料理、日々、あるいは旅。

引っ越し前夜

小津安二郎の『秋刀魚の味』を観たからだろうか、本がよけられて空っぽになってしまった本棚と手前に散らばる段ボール、その中に自分の荷物が収まっていることを考えると、この家に越してきてからの俺の人生というのは「目にするとこれだけのものでしかなかった」ワケで、なんだかいろいろ寂しいねえ、こんな時に酒でも飲めればいいのだけど、あいにく俺は素寒貧、ってんで炬燵に入り込んで沸かした麦茶を飲みながらこの文章をタイプしている。

本がなくなった本棚には文字通り「空」が存在し、機能美というものが取り戻されている。たった一部屋、これぽっちの俺の生活、俺のここで過ごした年月は確実に俺のことを強くした。俺はこの街に、まるで敗残兵のように惨めな気分で下ってきた。

事実、俺はこの部屋に住み始めると同時に、戦闘に敗北していたのだ。

女は去り、俺は毎日女が俺から去った理由を、その謎を解き明かそうと瞑想に耽り、ギターを弾いて、曲を書いた。

そうすることで、なにかしらヒントが与えられるのではないか、と思っていた。

俺は見事、女が俺に与えた謎の答えを見つけ出した。

 

俺はたくさん忘れてゆけるようになった。苦しいことに心をぎざぎざにすることは、音楽にとっては必要でも、生活の上では不必要なものだった。

 

 

とうとう俺も追いつめられたのだ。ヤキが回った。もう逃げられないのだ。逃げ続ければもしかすると勝てたかもしれないのに。いや、そんなことはない。それじゃまるっきりアル中の理屈じゃあないか。

俺は逃げられないのだ。

自分の人生から。そして自分自身の凡庸さから。

中途半端なアンテナなどあるから、俺の人生はこんなに苦しいのだ。

それでも、その中途半端なアンテナでも、俺だ。

俺は俺を認めなくちゃいけない。

そして自分の人生を導かなくちゃいけない。

誰かに乗っ取られてはいけないのだ。

感傷の青い季節は過ぎ去った。

いつの間にかずいぶん歳を取ってしまった。

机の上には、唯一まだ段ボールにしまっていないヘンリー・ミラーの『南回帰線』がある。

この本は俺の聖書だ。もし俺が死んだら、友人たちよ、この本を開いてくれ。俺はこの本の中に息づいている。一ページずつ俺は深く根を張り巡らせている。

 

 

本当にいろんなことがあったのだ。あったはずなのだ。千の夜がここにあり、たくさんの人々がここに入り、そしてまた出て行った。

千の夜などなく、今ここにあるのは今この一夜だけだ。

 

 

感傷の青い季節は過ぎ去った。などと書いておきながらおセンチなモードに入り込みかけていると、暴走族がオモテの国道を走る音が聞こえた。あぶねえあぶねえ、なんかこの部屋にまだ未練があるみたいに錯覚してたけど、この音うっさくてずっとしんどかってん! さっさと出とけばよかったわ!

 

と、ここまで書いて、「いや、でもなんか別れた女の悪口言ってるヤツみたいやな」と思って打ち切りました。

この脱線は不必要。

 

 

さて。

思い出はいつもきれいだけど、それだけじゃお腹がすくワ。

ってことで、三十代、新しい生活、もう素寒貧なんて言ってられねえ、稼ぐのだ、生きるのだ、砂漠に出たランボーのように!

俺が本当に音楽や言葉に呪われているのならば、一生そこから逃げられやしないだろう。さあ、安心して自由に生きるのだ! 誰の言うことも聞くな! 真剣に生きるのだ。それだけでいい。与えられた生を生きるのだ。

生きるとはどういうことだ。「生きている」という認識を持つことだ。そうでなければそれはまさに「生きている」とは言えないではないか!

瞬間瞬間を生きている、と思うのだ。食べている、と認識するのだ。

我々は行為によって、認識によって時間を区切っている。

食べる、という行為が我々の世界から消えた場合、我々は時間を区切る術を一つ失う。

認識がなければ、自我がなければ、それは生きているとは言わない。

生きている、とは「自覚的に生を生きている」ということだ。

これは一見あのプロティノスが言う「一者へ向かう道」の道を逆走するように思えるが、調和の中に不調和があるからこそ人は調和を目指そうとするのであって、一者へ、調和へ向かおうとするならば不調和にこそ向き合う必要があるのだ。

そしてその不調和に、イデアの、つまり調和を見出すのだ。

 

つまり?(So What?)

 

これでいいのだ。

 

 

物語はベッドの上で眠りに就いていた。

今や、物語の行く場所は何処にもなかった。

地図上のありとあらゆる場所はもちろん、沈んでしまったアトランティス、その海の底から果ては宇宙まで、その上すべての時間、空間を、つまり「全ての可能性」を、今や物語は経験し尽くしたのだった。

戦争を、恋を、疫病を、迫害を、愛を、コレラを、ペストを、呪術を、魔法を、宗教を、科学を、およそ起こり得るすべてのことを経験し、男娼を、サーカスを、詩人を、皇帝を、愛人を、英雄を、悪漢を、あらゆる役柄を体験した。

しかし、実は物語が最後に経験していない物語があった。

それは誰もに訪れる出来事でありながら、誰もが書き記すことのできない出来事だった。

物語はゆっくり目を閉じた。

長いお別れがそこにあった。

そして再び目を覚ました時、物語は柔らかい光の中で、すべてを忘れて何者かの暖かい胸の中に抱かれていた。