真白きだけの花火よ霞草

三十路で始めるロックンロール。いまだ売れていない天才(自称)バンドマンが語る音楽、文学、哲学、詩、料理、日々、あるいは旅。

瀬門春壱の「週報」7/6〜7/12

身体の調子悪く、ということはそのまま精神の調子の悪さにも繋がるわけで、尼崎でも飲みすぎることなく、ある意味不発で帰宅し、ぼけた頭でちびちびと作業を進めていく。虫の知らせ、というか、不吉な予感というものがレインコートの中にまで忍び込んできている。ああ、だろうなあ。と思う。お前は最大限努力したか? 慮ったか? 答えはいつも風の中。俺? 俺は俺というものがいまだになんなのかすら分かっていない。
 
 
 
 
某ライブハウスにて、新店長の就任祝いを兼ねて仲間たちと一日遊び、飲み倒す。イベント終わり、家の近くの「皇君菜館」に行って打ち上げ(でも三宮の方が美味しかったね)、そのまま銭湯に行き、帰宅。あひるの子のようにぞろぞろと連中もついてくるがかまわず俺は就寝。
朝起きてもなかなか帰ろうとしない男たちに心の中で呪詛を浴びせる。天使のむきえび、みたいな女の子ばかりが泊まりに来てくれればよいのに(なにを言ってるんだ)。
そこから二日間頑張って働く。ええい! 絶対にこんな生活とおさらばしてやる! 見ておけよ! と、くたびれすぎていつもの坂を自転車で登れずフラフラになっている朝、固く心にそう誓う。
 
 
 
 
甲東園「バードランド」にて、東京行き前最後の練習。何人かはそのまま甲東園に残るようだが、俺は正月ぶりに(というか基本的には正月にしか帰らないのだが)伊丹の実家に帰省する。
塚口から電車を乗り換えて、稲野(俺が家を出て最初に暮らした街だ)ーー新伊丹ーーそして伊丹へたどり着く。
今頃俺の同級生たちはどこでなにをしているのだろう? 本当にこの街を出てから、誰ともまったく会わない。俺だけがなにかとんでもないことをしてしまっているのか? 俺は街から弾かれてしまっているのか? 本当に俺に青春と呼べるような時間はあったのか? みんなはなにを考え、どうやって暮らしているのか? 生だの死だの、あるいは愛や恋、夢のことなど考えたりしているのだろうか? それとも金? 誰もが金のことしか考えていないのだろうか。
大雨の中、駅から乗り合わせたバスから降りて家まで帰る道すがら、俺はずっとそんなことを考えていた。
 
久しぶりに両親と話し、ご相伴に与り早めに眠る。明日から東京。
 
 
 
 
戦士たちの朝は早い。五時にドラムの三木と、俺たちがよく遊んだ公園に集まり、レンタカーで甲東園に向かう。
廣内、ケントと合流し、尼崎まで辻君を迎えに行く。
野犬に襲われたようなボロボロの出で立ちで現れた辻君を見て、あんまり乗せて行きたくなかったが、一人で歌は唄えない、仕方なく乗り込んでもらい、一同東京、八王子を目目指す。
一時間しか寝れずに、さっきまで練習してたっす。などと、体力があるを通り越して不気味、もはや意味不明なことをケントが言っている間に、真っ先に酒をかっ喰らい、早く眠ったという話だったはずの廣内が口を開けてもう寝ている。早い。最近、ベースを弾いているか酒をかっ喰らっているかパンを喰っているか寝ているか、これ以外のことをやっている彼を見たことがないのだが大丈夫だろうか。普通に心配になるが、まあこいつの心配なんてしていられないのは、相変わらず辻君が訳のわからないことを連発するからで、やれ自分の人生で一番楽しかったのは自然学校だの、そこで好きな子が歯磨きしているのが新鮮だっただの、思わず歯磨きしてる! と言ってしまっただの、なんの発展性もない話を喋り続けているので、俺が「俺の人生で一番楽しいのは今やけどな」と言うと、なんて寂しい人生なんや! こんな今が一番楽しいだなんて! などと腹の立つことを真剣に(そう、彼はいつだって真剣なのだ)言い、自分の自然学校がどれだけ楽しかったのかをまた俺に教えてくれるのだった。いらんて。
 
パーキング・エリアに寄り、音楽を流すプレイヤーを手に入れて旅は続く。運転はずっと三木君。ごくろうさま。車内は常に爆笑の嵐。疲れてきて、俺も少しうとうとし始める。廣内は、時々申し訳ないと思っているのか、起きては会話に参加するそぶりを見せるが、またすぐに眠りに就く。
やがて八王子に到着。田舎だ。田舎。まぎれもない田舎。俺たちの間に戦慄が走る。「俺の初めての東京、ここっすか」とケントが落ち込んでいるので、「大丈夫、ここは東京都は呼ばないよ」と言ってあげる(すまない八王子)。
名物「スタ丼」を食べて(三木は大盛り、廣内は丼+油そば。みんな若くないか?)、昼寝しよう、、、としていると、武士から連絡が入る。「東京でライブなんやて? 前乗りしてるねん」武士はいつでもヒマを持て余しているのだ。仕方なく付き合ってやることにする。
二人で喫茶店に行き(しかし我々は一体何百回喫茶店を共にしたのだろうか)、近況を報告しあい(ってこないだ会ったばっかりやんけ)、お互いへらず口を叩き合い、そのまま武士は俺たちのバンドのリハを見たあと「駅まで送ってくれるんやろ?」とにやり、笑いながら言い放ち、「今日のライブ、見えたな」などとこいつもまた訳の分からないことを言うと改札の向こうへ消えていった。わざわざこんな遠いところまで来てくれてありがとう。愛を。
 
ライブが始まるまでに、どっかで缶ビールでもこうてこましたろ、とぶらついて、無事にゲット・ザ・ビアーして店の入り口まで戻ってくると、王様一同&今回の企画者であるSABOTEN MUSICのこすけ君が一緒になって座り込み、尼崎の空気を作り上げている。
すわ、一体何事じゃい。とそっちの方に寄っていくと、ケントが今の政治が、日本がいかにおかしいのかをみんなにアジテートしていた。好き者やなあ、と遠巻きに見ていたが話題を振られ、一気に燃えて喋り倒し、気づけば今の日本が悪いのは震災で大地の龍脈が崩れたからだ、と身振り手振りで熱弁。あっけにとられるみんなを尻目に俺は再びゲット・ザ・ビアー。
 
ライブ終わり、一人で中華屋で打ち上げ、メンバーはみな日帰りだが俺はせっかくなのでこのまま東京に残る。
調布まで送ってもらい、ここが舞城の小説に出てくる調布かあ、と感慨に耽り、コンビニで酒を買い、漫画喫茶へイン。いやあ、最近の漫画喫茶ってこんなに快適なんですね。部屋広い。足伸ばせる。綺麗。シャワー浴びれる。はああああ開放感。知らない街で、俺、一人、旅の真っ最中!
早速ちびちびと酒を飲み始めるも、疲労困憊、一瞬で眠ってしまう俺だった。いや、だから、本当に、インターネットで、やらしいサイトなんて、見てないってば。

瀬門春壱の「週報」6/29〜7/5

生活が荒れ始めているのは気圧や気候のせいなのか、それともあまりに日々が忙しすぎるからなのか、はたまた俺の体力がないからなのか(自分を卑下するのはよせ、お前は馬車馬の如くタフに走り回っている)、もちろんこんな天気ばかりが続けば洗濯物は干せやしないし、そりゃあどことなくジメジメしている部屋に憂鬱を覚えるのも分からなくないが、それなら片付けたり洗濯していたりに割り当てていたはずの時間は一体どこへ行ったのやら。本を読み、文字を書くことに使ったのだろうか? 音楽に使ったのだろうか? いや、、、と思っていたが、しかしこれはまた俺の悪い癖で、十分そういったものに時間を使えていたはずだ。この季節はどうにも調子が悪くて困る。6月という言葉から連想する透き通った青い雨を想うと、それほど悪い季節ではないと思うのだが。
 
 
 
 
どうやら巷ではサ道(サウナ道)というものが流行っているらしく、サウナにハマり倒している友人の勧めで、俺の家の近くの風呂屋に行く。
俺はもともとサウナが好きだし水風呂にも必ず入る人間なのだが、どうやらサウナ道には手順があるらしく、その手順に従ってサウナに入れば「サウナトランス」というドラッグ顔負けのブッ飛びがキメられるのだという。
バロウズ育ち中島らも生まれ、ヤバそうなヤツはだいたい友達(ではない)の俺としては体験するしかないだろう。まずは風呂に入り、一度上がってタオルで身体の汗を拭き取り(こうすることで新しく汗をかくことができるんです、あ、でもこれは決して必要な行程ではないんです。と友人。いらんのかい!)、サウナに入ること10分。いつもは水風呂に入ってからサウナに入るのだが、身体が冷えていない状態での10分はなかなかに厳しい。心頭滅却すれば火もまた涼し、暑いと思っているのは俺の意識であり、その意識を観察している俺自体は決して暑くはないのだ、などと瞑想のメソッドを応用するも暑いものは暑い。
ようやく10分が経過してサウナを出て、そのまま熱いシャワーで身体を流し、水風呂へGO。ああ水風呂最高。1分半ほど入り、水風呂から出ようと立ち上がった瞬間にクラリ、ときて俺は思わずにやり、おお確かにトランス!
そのまま椅子に腰かけて目を閉じると、頭の中がぐるぐる回り、なにも考えられなくなってくる。やがて身体の芯に灯っている熱に気づくと、それがじわりと身体全体に血液を通して広がっていくのが分かる。ああ、至福の時。
後ろに座っている友人は、と振り返ってみると、彼はまるで即身仏のように大きく口を開いたまま昇天していたのであった。
 
風呂上がりにビールを引っかけ(競馬に買った金で奢った)、帰宅。
結局泊まっていった友人は、「目覚めが良くなりますよ〜」という言葉とは裏腹に何度目覚ましが鳴っても起きてこなかった。
 
 
 
 
某ライブハウスに出勤、帰りに古い友人と会う約束をしていたのでボスの誘いを断り、彼の家で少し話をする。
これから世界は、未来はどうなっていくのか。
そんな折、聞かせてもらった音楽に衝撃を受ける。
家に帰り、俺は今日までなにをやっていたのだ、とひどく落ち込む。
もっといい曲を書きたい。
 
 
 
 
甲東園で練習。尼崎、神戸、東京と三本もライブが控えている。
スタジオ練習の調子は上々。
 
家に帰り、酒を飲んでいると、ふと思い立ち、そのまま文字をずらずらと書き連ねることができた。
夜明け近くになり、気がつけば自分の体調がとてつもなく悪いことに気づく。
少し眠るがまったく回復せず、かろうじて朝の料理屋へ行くものの、すぐに体調の悪さを見抜かれて家に帰らされる。
そのまま俺はトイレの神様になる。バファリン、高いユンケル飲み、眠り倒し、フラフラで夜、働く。
 
 
 
 
なんとか回復し、夜通し働いたあとで朝の料理屋へ行き、のち某ライブハウスに出勤。今から考えれば一体なにを考えているのか分からないハードスケジュールだが、なにも考えていないのだから仕方がない。
かわいがってきた若手バンドの企画。客入りも上々で価値ある一日になった、と頷いて帰ろうとすると、「瀬門さん、前朝まで付き合ってくれるって言ったじゃないですか! 飲みに行きましょう!」と誘われ断りきれず(過去の俺よ死んでくれ)、結局夜中三時まで「鳥貴族」で飲み、帰って、少し寝て、朝から料理屋で働いて少し寝て尼崎toraでライブ。おいおい書いてて自分でよく今週生き延びれたな、と戦慄しているよ。馬鹿か俺は?
toraはブッカー星子のバースデーイベント、最終日で俺たちの出番はトリ。酒を飲むが、熱くなるばかりで酔わない。身体が酒を受け付けていないのだ。
苦笑しながらなんとか一日を乗り切る。この日も藤本さんと一緒で、やはり藤本さんは最高だった。酔っていないのに泣いてしまった。
中華料理屋でちーまこと打ち上げてから帰宅。しかし眠れず結局朝まで文の手入れをする。死ぬ気か、自分?
充実している。十分充実しているし、その中でお前はよく戦っている。大人になればもう誰も褒めてくれないのだから、自分で自分を褒めてやるしかない。しかし休んだら、再び戦え。何度でも立ち上がれ。お前はゾンビだ。お前のその様だけが、つっ立ち方だけが、人の心に勇気を与えるのだ。

祝サブスク解禁! Syrup16g全アルバムレビュー③『パープルムカデ』『My Song』『Mouth To Mouse』


パープルムカデ/My Song【reissue】

 
『パープルムカデ』
 
記念すべき1stシングルは2003年9月17日発売。『COPY』『coup d’Etat』『HELL-SEE』で「君」との問題を解決できなかった五十嵐ですが、ここに来て「戦争」という大現実を自分という小現実に重ねることによって、逸脱を図ります。ファンから人気が高い、変拍子が特徴的な「パープルムカデ」、タイトルは隊列を組む兵士たちから連想された言葉か。
「好きなことはなに? 好きなことをやれ」あるいは「俺は俺のままで下敷きになる」など、これまでにはない戦闘態勢、、、というか、決意のようなものが現れます。
次曲「(I’m not)by you」、ちょっと下ネタに聞こえてしまうのがもったいない静かな名曲は「時が経つのをこうやって ただ待ってる それだけ」といつもの五十嵐節を覗かせながらも、「隠しきれない傷だって 消えてしまうものだって」「悲しみを追い払ったら 喜びまで逃げてった」と、絶望の先の諦念の領域にまで歌詞が達しています。
そして3曲目「回送」では、なんと電子音の打ち込みに合わせて「Shining Staring クマのリュックとローマ帝国の配下で君はまゆげをなくした」と、突然のシュルレアリスティックな歌詞が唄われます。
歌詞に登場しないタイトルの回送という言葉は、もともとライブで唄われていた初期歌詞の名残で、そこには「あとはもう漫画読みたい」「凡人 才人 つまらぬ葛藤よ そんなもんで今日も煮詰まり あとはもう酒飲みたい」と、かつての五十嵐節が書かれています。
 
つまり、このタイミングで五十嵐に、なにか前向きに変わる大きな出来事があったことは間違いないでしょう。「つまんない君を守る為に」、あるいは「その時体中が未来を感じたんだ」という今までにないフレーズが歌詞に登場しているところからも推測できます。
4曲目「根ぐされ」は、トム・ヨークが弾き語りをしているようなシンプルで美しい曲。「俺の魂は根ぐされを起こしてしまった 君のせいでもなく 永遠に」と、厭世的な出だしとは裏腹に、もはや誰を責めるでもない五十嵐は「働くのさ 自分の道を探すのさ 可能性なんて無限大」「どんな言葉も役割を遂げた時 変わらない歌を届けたい」「飛び立つのさ 自分の意思で放つのさ この空の彼方を見てみたい」と変わり始めます。
 
記憶を辿って とある駅へ出た
そこには何もなく すでに
そこで僕は君の家を見つけた
少しだけ感動して 帰る
 
風呂場で録音したというリバーブがかった宅録全開の「根ぐされ」は、後半で突然チープなノイズによって埋められて終わります。
今までの作品とは一転、五十嵐のモードが変わったことがはっきりと分かります。そしてそれは自作『My Song』へ続きます。
 
 
『My Song』
 
間髪入れず2003年12月17日にリリースされた2ndシングルはタイトルからしてびっくり、「My song」は楽曲が始まってからさらにびっくり。どうした五十嵐、なんか悪いもんでも食ったか? というくらい優しい楽曲です。
 
あなたを見ていたい
その場にいれる時だけ
裸を見ていたい
言葉はすぐに色褪せる

 

おいおい。お前絶対新しい恋に落ちたやろ? かつての私小説家さながら、五十嵐の正直さが見てとれる歌詞です。
いい曲なんですけど、いつ聴いても物足りない感じがあります。ちょっと無理してない? と思わず聞きたくなってしまう、、、。
そんな爽やかさから一転、2曲目「タクシードライバー・ブラインドネス」は五十嵐屈指の名曲でしょう。
 
ニュースは毎朝見る
ところで思うんだが
占いのコーナーってあれ 何?
 

 

まずこの出だしからして最高。笑いながら頷いてしまいます。
 
未来は無邪気に割り振られ
人は黙ってそれを待つ
 
そこにあるすべて それがもうすべて
求めればまた失うだけ
仕組みの中で子宮に戻る
見過ぎたものを忘れてく為
 
許されることだけを許される範囲で
やり通せると思ってきたのに
 

 

楽曲のクオリティ、歌詞のクオリティ共に凄まじく、どこか超越した、というか大きな視座に切り替わったと感じさせられます。
3曲目「夢」、これもまた凄まじい。積み上げた石を自ら足蹴にして壊していくような、五十嵐のタナトスがもっとも噴出している曲といっても過言ではないでしょう。
 
本当のことを言えば
俺はもうなんにも求めていないから
この歌声が
君に触れなくても仕方ないと思う
 
夢はなんとなく
叶わないもんだと思ってきたけど
なんてことはない
俺は夢を全て叶えてしまった
 
本能を無視すれば
明日死んじまっても別に構わない
本気でいらないんだ
幸せはヤバいんだ

 

ここまで捻くれてしまうと、どこまで行っても救いがないことに気づいたのか、五十嵐がどこかで「あの曲は失敗だった」と言っていたのも分かりますが、曲・歌詞共に素晴らしいと思います。
「生きたいよ」でかつて「ただのノスタルジー 生ゴミ持ち歩いてんじゃねえ」と唄われていたゴミが、今度は「煮詰まって 妥協して 生み落とす燃えないゴミ」に変わっているところにも注目です。
さらにダメ押しの4曲目「イマジン」。「タクシードライバー・ブラインドネス」「夢」「イマジン」でシングル切ってれば伝説のシングルになってたんじゃないかってくらいこの3曲の完成度は高いです。
 
将来は素敵な家とあと犬がいて
リフォーム好きな妻にまたせがまれて
観覧車に乗った娘は靴を脱いで
 
窓から差し込むのは朝日または夕暮れ
それすらもうどうでもいい
 
こんなんでいいんだろうか
そんな訳ないだろう俺
なんでここで涙出る
 
と、自身が今まさに手に入れようとしている普遍的な幸福像に対して、芸術家・音楽家たる自身としての生き方がぶつかります。そう、「幸せはヤバい」、幸福を手に入れてしまうということは、自身が規定する芸術家・音楽家の厳しい道から外れていくということではないのか? と五十嵐は葛藤します。
 
空はこの上 天国はその上
そんなの信じないね
空は空の色のまんまで
人は人のまんまで
そのままで美しい

  

そしてついに五十嵐は、悩み傷つく自身を、それでこそ自分自身だと肯定する境地にまで到ります。神のカルマなどどこにもなく、ただ自分自身の業と向き合い清算していく生き方を選びます。
まさに「イマジン」はこの時点での集大成と言える楽曲であり、これまでの音源を時系列順に聴いていけば、五十嵐の克己の歴史をここに見ることができます。
 
こうして五十嵐は再び革命の旗を掲げます。
 
 
 
『Mouth To Mouse』
 
達成感なんているかそんなもの
俺は死ぬまで完成なんかしない
上手にやれなくても構わない いつか
ツイてなかったって言って終わろう
 
もう誰も止められない
この音楽を愛してるんだ
セ・ラ・ヴィ これが人生
やっとおもしろくなってきたんだ 今
さあ 今更
 
すべてを受け入れる力 それが勇気だRight!
 
さらに勢いは止まらず2004年4月21日に発売された5thアルバムはオリコンチャート22位(この時点で過去最高位)にランクイン。いや本当にどうした。とツッコみたくなるほど、1曲目「実弾」から、いきなり五十嵐がこれまでにない戦闘態勢に入っていることが分かります。まるで別人のような歌詞ですが、楽曲のクオリティは相変わらず高く、案外すんなりと新しい五十嵐に馴染めると思います。
次の「リアル」でも、
 
命によって俺は壊れた
いつかは終わるそんな恐怖に
でも命によって俺は救われた
いつかは終わる それ自体が希望
 
お前にこの一生捧げよう
必要なくなって見捨てられるまで
 
必死なのはかっこ悪くない
むしろその逆
 

 

自身を見つめる冷静な眼差しは失われていないものの、今までのSyrupになかったエネルギー、生を肯定する力が渦巻いています。
3曲目「うお座」はミニマルで美しいバラード。
 
意味もなく君はあの時寂しくて
嫌いじゃない僕を受け入れただけ

 

というリアルな心情描写が感情を抉ります。「この音楽を愛してるんだ」と五十嵐が唄った通り、このアルバムは楽曲こそ統一感なくバラバラですが、個々のクオリティは非常に高く、唄う喜びというものに満ち溢れた五十嵐の渾身の歌唱と見事に結実していると思います。
4曲目「パープルムカデ」、5曲目「My Song」は先述、6曲目はタイトル曲の「Mouth To Mouse」。地味ながら良い曲です。「奥歯は絶対抜いちゃだめ 嘘に酔う元気なくしちゃだめ」という言葉遊びも面白いですが、「きっといつかは痛みも忘れ そっと同じあやまちを繰り返す罪」と、まるで今後のことを予見するかのような不吉な歌詞が提示されます。
7曲目「I・N・M」は「I need to be myself」の略。これは名曲ですね。
 
逃げたいキレたい時もある
別れを告げたい時もくる
逃げたい消えたい時もある
ただ前を知るために精一杯
 
俺は俺でいるために
ただ戦っている精一杯

 

ここで五十嵐は、特定の個人の喪失を唄っていたころからもう一つ次の段階に進み、喪失そのものと向き合います。歌詞・楽曲共に見事というより他にない出来です。
次曲「回送」、これも先述しましたが、シングルとはバージョン違い。演奏のテンポが上がり、打ち込みが消えています。
9曲目「変態」は変質者の方ではなく 笑 「サナギは蝶になった」の方の変態で、「手首」のメロに似たリフとジグザグのギターの音色が格好良い、個人的にお気に入りの曲です。
 
俺は待っていたんだ
眠ってた訳じゃない
いつだってその時を待っていた
 
図鑑になんか載ってない
俺のは完璧なフォルムしてんだ 見てほら
一点のくもりもない
澄み切った空の日 羽ばたくんだ すげえ

 

あの五十嵐がついに羽ばたくつもりなのだ、と考えるだけで涙腺が刺激されます。10曲目はシングルに収録されていた「夢」。11曲目「希望」は、ラストライブでも演奏されていた曲で、シンプルな曲ですがメロディの美しさ、歌詞の切なさは特筆すべきものがあります。
 
希望あつめて 洗って たたんで
いつか身にまとうその時
迎えに来てくれ

 

12曲目「メリモ」、タイトルはMerry more?
 
生きんのがつらいとかしんどいとかめんどくさいとか
そんなことが言いたくて えっらそうに言いたくて
二酸化炭素吐いてんじゃねえよ
 

 

という、お前が言うなよ的なある種の自虐を含んだ歌詞や、「絶対これは買いの絶対って何?」という名言が聴きどころですが、個人的にはその歌詞も含めてあまり出来の良い曲とは思えません。もしかしてSyrup16gで一番興味ない曲かもしれません。
転じて13曲目「ハミングバード」はささやかな良曲。全て引用したいくらい素晴らしい歌詞なのですが、
 
セミだって花だって
悲しいと思える
人間の感性を
自分は愛してる
 

 

この歌詞はまさに、コリン・ウィルソンが『アウトサイダー』で引用していた「春には桜の樹を愛し、青空を愛すーーそれだけだ。智能とか論理の問題ではないーー臓腑で愛する、腹で愛することなのだ」というドストエフスキーの言葉そのものに当てはまります。
『COPY』から続いた五十嵐の地獄巡りはついに終わり、そして最終曲『Your eyes closed』に辿り着きます。
 
あなたと出会って
ただそれだけで
すばらしくなって
後悔なんかしないで
 
どうしてそこからそこに行く
行動が読めなくてドキドキする
 
愛しかないとか思っちゃうヤバい
抱きしめてると死んでもいいやって
たまに思うんだ

 

、、、やっぱりね! なんか変に元気だと思ったら恋してたか五十嵐!
いや〜この男、正直すぎます。まさに現代の私小説家。自分を切り売りしてます。
 
というわけで『Mouth To Mouse』は、長く続いてきた五十嵐の絶望にピリオドを打つ作品であり、新しい愛を祝福するアルバムでもあります。
しかしその新しい愛こそが再び地獄への入り口だということに、この時五十嵐は、、、気付いて、、、いや、多分気付いてますよね。笑
 
というわけで次回は『delaydead』、そして解散前の『syrup16g』に続きます。

瀬門春壱の「週報」6/22〜6/28

昼間、新開地にて洋食「ゆうき」訪ねるも、長蛇の列のため断念し、「グリル一平」に向かう。
食事をすませると、両親が新開地に来ているということなので「やよい」にて会い、少しばかり酒を飲む。
両親に案内ついでに俺は湊川商店街で食べ物・土産物を見繕い、古本屋を巡り、三国ヶ丘のエンデ宅へ。
初めて対面するエンデの子供を酒の肴に、二人で日本酒を飲み続ける。
エンデ君は昔、ちっとも酒を飲まなかったのだが、いつの間にかかなりいける口になっている。
男同士で日本酒を、さしつさされつするのは粋で好きだ。
酩酊して帰る。
 
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昼、中華の名店、王子公園「天天」で食事をすませたあと、友人たちと、待ち合わせて仁川の阪神競馬場へ。俺は昔、ほんの少しの間だけ競馬で生活できていたことがあって、今でも時間と金に余裕さえあれば毎週競馬場に通いたいくらいなのだが(なんせブコウスキーも寺山修司も保坂和志も好きな俺だ)、久しぶりに立つ阪神競馬場は獣と草のちぎれる匂いがしてやはり楽しい。
ああだこうだと言いながら第10レースを外し、しかしここで自分の中でなんとなく手応えのようなものを感じて挑んだメインレース(宝塚記念)は見事3連単、馬単的中。
実は点数を間違ってかなり多く買ってしまっていたので内心ハラハラだったのだが、無事勝つことができて一安心。
かつての競馬仲間であり俺の師も来て、見事取っていたようだったので嬉しかった。勝ったその足で万葉倶楽部に行き、風呂に入り、みんなで宴会をする。
酩酊して帰る。
 
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神戸某ライブハウスにて、総勢19人が1人2曲ずつ持ち寄ってライブをする、という、天王寺fireloopというライブハウスの名物企画をパクったイベントをやる。みんな楽しんでくれていたように思う。それにしてもこの日の藤本さんはすごかった。藤本友己。究極のミュージシャンだと思っている。あなたがもしも藤本友己というアーティストを知らないのならば絶対に知るべき。そしてライブに行くべき。こんな人は世界中どこを探してもいない。本当に優しく(ダイの大冒険のクロコダイルくらい優しい)、そしてその優しさゆえに擦り切れている人。俺は藤本さんとその音楽を愛している。心酔している。
あまりの凄まじさに気がつけば俺は失神。いやだから気がつかなくなったんだけどね。気絶。打ち上げで記憶を失う。
酩酊して帰る。
 
 
 
 
かつて組んでいたバンドのメンバーで久しぶりに会おう、という話になりなんと一週間のうちにまたしても三国ヶ丘のエンデ宅へ向かうことになる。
難波で元マネージャーと待ち合わせて三国ヶ丘で降り立ち、成城石井で買い物をしようと思ったその時に財布を家に忘れてきたことに気づく。
立て替えてもらい、日本酒とワインを持ってエンデ宅へ。
ゆっくり酒を飲んでいるとTとNも到着し、あとはひたすら馬鹿な話をして盛り上がる。
この日はエンデ家に料理まで振舞ってもらった。多謝。
帰りの電車はNと二人。話し足りないくらいね、と言ってNは降りて行ったが、いつだって話し足りないくらいの方が俺たちにはちょうどいい気がする。
酩酊して帰る。
 
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というわけで今週はひたすら飲み通した一週間だった。釣り針で引っ張られたような偏頭痛が起こり、左の奥歯付近の歯茎が腫れ上がり、口内炎ができているのだが、これは俺が最大限に疲労を蓄積している証拠である(飲みすぎると絶対にこの状態になる)。心なしか週報の筆も冴えない。
今決まっている予定以外は、人に会う予定を入れないでおく。生涯の仕事に取りかかる。

瀬門春壱の「週報」6/15〜6/21

神戸某ライブハウスでBuffalo Daughterのライブを観る。あなどっていた、まさかこれほどまでに素晴らしいショーだとは!
神々の遊戯、とすら呼べるような圧倒的な演奏・表現に終始感動する。
ライブを観終えたあと、バー「アビョーン・プラス・ワン」に向かい、フランス文学者のエス氏と彼の連れの《短くも美しく燃え》と合流して酒を飲む。
中島らもの小説にも出てくるエス氏とは、二度ほど対面したことがある。俺は彼の大ファンで、ある日、どうしても会いたくなってもらった名刺に書いてあるアドレスにメールを送り、一対一で会う約束を取りつけたのだが、呼ばれて向かったバーでエス氏が女性を口説いている、いやむしろ女性に口説かれていたのを見て、一体俺はこんなところでなにをやっているんだ、と突然の自己嫌悪に苛まれてそのまま話をせずに帰宅する、というとんでもない無礼を働いたことがあるのだが、その話の謝罪もすることができてよかった。
「アビョーン・プラス・ワン」は村八分やラリーズ、EP-4、はたまたブリジット・フォンテーヌのCDが置いてあるところからも分かるように、とても好みの雰囲気のバーで、移りゆく話のテーマの中に登場する寺山修司や土方巽の名前を聞きながら、中島らももこうやって押し黙りながら話を聞いていたのだろうか、と思っていた。
 
店を出るとひどい雨だった。タクシーに乗り込んで帰る。
 
 
 
 
《短くも美しく燃え》と王子公園にある「カラピンチャ」で昼食をとる。ちゃんとしたカレー。美味い。満足。かつて王子公園に住んでいたころ、俺はバイトを3つもかけもちして稼いでいたはずなのだが、「とりひげ」以外の場所にどこにも出かけたことがなかったのは一体どうしてなのか。いや、出かけてはいたのだろうが、あまり記憶がない。そもそも稼いでいたと言ったが、金があった試しもない。おそらく全て酒に消えたのだろう。おそろしいことだ。
この街に来ると、一体あの毎日はなんだったのだろう、といつも思う。狭く散らかった部屋と、出入りしたたくさんの人々。あれらはすべてどこに行ってしまったのか。本当にあんなことがあったのだろうか。俺はなにを大切にして、誰を大切にできなかったのか。
時々俺のような人間がのうのうと生きていることに苛立ちを感じるが、しかし俺はどうしようもなく愚かだったのだ。今となっては苦笑いするより他にない。
 
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大阪で古い友人と会って少し飲む。もう随分長い付き合いで、よくもまあお互いに生き延びたものだと感心する。
会うのは年に一度か二度。連絡もあまりとらない。それでも心のどこかにいる。お互いに思い出した時、その時間の中にだけお互いが生きている。
 
酔いを冷静に観察できるくらいの状態で帰宅している途中、俺に人生で一番大きな、と言っても過言ではないくらいのコペルニクス的転回が訪れた。
なんと言えばいいのか、、、物事の別の側面が見えるようになったのだ。
 それはもしかすると子供のころには見えていたものなのかもしれないが、つまり、自分の価値観というものがいつの間かフレームの中に押し込められているのだ、と気づいた瞬間に俺はこの現実という名の書き割りのトリックを見破り、シュタイナーが言うところの超感覚的世界と接続した。
ヴァン・ゴッホはまさに見たままにあの絵画を描いたのであり、芸術とは善・悪関係なく、無邪気な視線で現実そのものを残酷なまでに表現することなのだ。
俺はイメージによる支配を打ち破った。光=善ではなく、闇=悪でもない。いつの間にこんな価値観が俺の頭の中に植えつけられていたのだろう!
漆黒の闇の美しさを、創造力が湧き出る夢の泉を、いつの間に俺はないがしろにしてしまっていたのか。
 
眠り、夢、覆われて隠されたものにこそ神秘は生じる。人生とは「問い」であるからこそ美しく、その人生を生きる以上、自身もまた「問い」なのだ。
 
涙が出るほど下品なTVの、薄汚い連中の欲望の視線からもう一度謎を、闇を、夜を、夢を取り戻せ。誰かに消費されるな。
 
 
 
 
朝から神戸某ライブハウスにてアーティストのプリプロ作業に立ち会う。別に自分にできることはそれほどないが、少しでも良い作品が作れるように導くことができれば、と思う。
 
そのままある仕事に向かって働いていると、前方にいる二人組の女子高生のうち一人が追い抜きざまに「お疲れ様です」と声をかけてきた。一瞬意味がよく分からず立ち止まったのだが、彼女は歳にまったく似合わない穏やかな微笑みを浮かべたまま静かに黙っている。ようやく俺がああ、お疲れ様です。と返して通り過ぎると、「平和だなあ」という声が後ろから聞こえた。
その言葉で彼女は、本当に、純粋に見知らぬ誰かへの労いの言葉をかけたのだと気付き、深い感動に打ち震えた。
そんな心を持ち得る人間が一体どれだけいるだろうか? 願わくば彼女の一日に祝福がありますように。
 
 
 
 
甲東園「バードランド」にて練習。「The Bell(鐘は三度鳴る)」「おいてけぼりのうた」「BGMが流れる」「僕が王様だったころ」という比較的新しい曲群を練習。こっちは良い感じだが、どうも既存曲のアレンジで気に入らないところがあり、何度も修正をかけてみるが、、、難しい。
もう一曲、少し前に持ってきた新曲のアレンジにも手間取る。シャッフルの曲で、ビートルズに結びつければ簡単に解決するのだが、もう少し違ったアプローチを、、、と考えて今回もタイムアップ。この日記を読んでくれている奇特な人たちのために歌詞を貼っておきます。え? ああ、そうです、ランボー風です。笑
もっと音楽に時間を割きたい。自分の時間を手に入れたい。
 
「人生」
 
いつかの言葉を抱きしめ
キンポウゲの花が咲いている夏の畦道を
口笛を吹いて一人
風を道連れに地獄まで歩いていく
 
お前が望んだことだろう?
バラバラに破いた手紙は宙に舞うとすぐ
魔法のように燃えてしまって
どこからか深い闇が流れ込んでくると
俺を取り巻いた
 
もう戻れない人生
憶えていて 忘れないで 遠い記憶の彼方で
求めあった声が
叫んでいる 響いている いつまでも
 
並んで座ってるだけで楽しいね、と君が笑った
その瞬間、俺の苦しみは消えてしまって
愛するとはなにか少し分かった気がした
神秘に近づいた
 
もう止められないなんて
行かないでくれ! 振り返ってくれ!
時間・空間の狭間で
もう一度会えたって
言えない だけどその姿を焼きつけたい
 
暗く静謐な入り江から星が立ち去って
鶏の鳴く白い朝が流れ込んでくると
俺を取り巻いた
 
もう戻れない人生
憶えていて 忘れないで 遠い記憶の彼方で
求めあった答えは
輝いている 煌めいている いつまでも!
 
 
 
 
今朝。一つアイデアが思い浮かんだ。それはもしかすると今までの自分がやってきたこと、あるいは出会ってきた人が有機的に連結することであり、自分にとってのライフワークのようなものになるかもしれないと思えた。早速友人に連絡を取る。
 
コリン・ウィルソンは「結局のところ物事は目で見ているのではなく、脳で見ているのである」というような趣旨のことを書いていたが、本当にその通りで、俺は目の前に広がっている美しい星空を通り過ぎるような人間にはなりたくない。
そういうことを、世の中に向かって話すことができればと思う。考えるのだ。まだ見ぬ本を読み、音楽を聴け。俺たちが賢くなればなるほど世の中は良くなる。もちろん絶望の度合いも共に深まってはゆくだろうけれど。
 
書き終えて、今少し日記を読み返したのだが、一週間の間にこんなにも俺の心は揺れ動いている。幸せな男だと思う。

瀬門春壱の「週報」6/8〜6/14

オールデイ・オールナイ働き倒してたどり着いたロックンロール・サーキット・イベントは朝から。どうにかシャワーだけは浴びてこられてラッキー、深夜二時くらいまで働き打ち上げの途中で離脱。
ザ・シックスブリッツのライブが凄まじく良く、「Too街PAIN」という曲で不覚にも落涙してしまう。例えばディラン、ニール・ヤング、あるいはルー・リード。そういう人たちが会得した音楽の魔法を確かに西島さんはこの日操っていた。
「音楽で世界が変わると思っている」と正々堂々と言い放つその様が凄まじい。そうだ、そうだよ。誰かが音楽のことを信じてやらないと。馬鹿みたいじゃないか、こんな世の中。息苦しいじゃないか。
 
 
西島さんは打ち上げでも誰よりも酒を飲み、ロックDJで踊る(そして流れる全ての音楽を知っている)。なんてかっこいい大人なんだろう!
 
酒を酌み交わし、音楽や哲学の話をしていると、「もっとシンプルな言葉で!」と言われて俺は思わずへへへ、と笑ってしまった。
 
 
 
 
二日酔いがようやく抜けた夕方に、コーヒーを飲みながらEric Kazを聴いていると、ふと自分の人生にはまだ想像もつかないようなとんでもなく美しいこと・素晴らしいことがたくさん起こるのだ、という予感が確信として俺に訪れた。霊的直感。キヨシローが唄っていた、「わかってもらえるさ」、いつかきっとわかってもらえる。僕らなにも間違ってない。もうすぐなんだ。
 
というわけで、「気の合う友達」であるダイキ率いるPaper Peopleのライブを観に行こうとしていたところ、辻君から飲みに誘われたので街に出で合流する。「(飲むのは)機材取りに来たついでやねぇん」と、尼崎在住の彼はわざわざ言わないでもいいことを言うが、まあ実際俺もライブ前に一人でどこか飲みに行こうかと考えていたところだ。冠位十二階の紫色くらい偉い貴族の俺たちが行く場所は当然「鳥貴族」と決まっている。
ビールを頼み、まあ飽きもせずロックの話をする。黒人のブルースと白人のロックンロール、リズムの解釈の違い(このあたり菊地成孔著『東京大学のアルバート・アイラー』のエルヴィスのくだりを読むとむちゃくちゃ面白いのでぜひ)、ブリティッシュとアメリカン、「ザ・バンドはディランのバックバンドやったから過小評価されてるねんなぁ」と辻君がまだ穏やかなうちは良かったが、しまいには「ロックンロールっていうのは結局形式にハマってるわけで、そこから逸脱するっていうのが『ロック』やねん。だからハード・ロックなんかせっかく逸脱したその形式にもう一度戻っていくのがやっぱりオモロないねんなぁ。まあ、俺が一番ロックやねん」などと言い始める始末。ロック一番の座を辻君に譲って店を出て、ライブハウスに向かう。
 
ライブハウスの中には悪そうな人・人・人。あら、こんなにお客さん来てるんか。というのが正直な感想。実はこの日のライブに自分のバンドも呼んでもらってたのだが諸事情で出られず。しかしどこを見ても悪そうな連中しかいなくて、苦笑しつつ酒を飲む。
ようやく陶然となってきたところでPaper Peopleのライブが始まる。この日のライブはむちゃくちゃ良かった。辻君はPaper Peopleが最後の出番だと勝手に思い込み(実際にはあと2バンドいた)、アンコールの拍手をしていた。
 
結局そのアンコールの拍手が周囲の飲んだくれ共に伝播、Paper Peopleはもう1曲やっていた。
 
 
ライブが終わったあとで、辻君が「ライブってこんな楽しいねんなぁ。俺、あんま観に行かんから。インディーズ・バンドもっと観に行こうの会しよやぁ」と今更訳の分からないことをダイキに言っていた。
 
「俺、一つ怒ってることがあるんですけど、いいですか」とダイキが俺に言う。
「ん、なに?」
「歌メロを作る時にね、ほら、あの、(そう言って彼は俺の歌を口ずさんで)ね、ここのメロディが絶対出てきてしまうんですよ」
そう言って笑うダイキは写真の中のロック・スターそのものだった。
 
ライブを終えて上機嫌の辻君と、街の駅前の「鶴亀八番」に飲みに行き、愛について話して別れる。
 
 
 
 
この歳になるといろんなことがあって、人の誕生日を祝うこともある(もちろん祝わないことだってある)。
そういう誰かの記念日には、やはり自分自身の来し方も含めていろんなことを振り返ってみようとするのだが、しかし過ぎた歳月を思ってみても、そこに含まれているはずのたくさんの人々はその中にはいない。
結局のところ、記憶とは自分で作り上げた風景であり、空間とは違い、誰とも共有することができないものだ。
つまりそれは事実ではない。そこにはもう自分自身しかいない。
だからいくらでも嘘をつくことができる。見立てることができる。自分だけの王国の中で、絶対にありえないはずの、誰もがみんな幸せだった瞬間が存在している。
それでいいのだ。
 
 
 
 
甲東園「バードランド」で朝から練習。新しい曲のビートが決まらず、かつて書き上げた曲を少し詰める。そのまま歌詞も書き換えてしまう。
 
「The Bell(鐘は三度鳴る)」
 
愛なんていらない そう言ってきた
それなのに二人は出会ってしまった
 
祝福の鐘が鳴って物語が始まれば
眠れない夜に花が開いて
 
そして幸せは続くと思っていた
だけど悪い星がヴェールを引き裂く
 
運命の鐘が鳴って物語が変われば
眠れない夜に罠が開いて
 
審判の鐘が鳴って物語が終われば
眠れない夜に穴が開いて
 
 
 
 
仕事終わり、社長、スタッフと飲みに行く。もちろん冠位十二階の紫色くらい偉い貴族の俺たちが行く場所は当然「鳥貴族」と決まっている。
各々の音楽のルーツの話などする。というかまあ俺が一方的に喋り倒す。いつものことだ。失礼!
 
 
 
 
酒響き、書き物と学習進まず。なんとか仕事をこなし、帰宅して掃除炊事洗濯をこなす。休みの日はいつも片付けで潰れてしまうが、片付けることによって自身の心も落ち着くので良し。
めずらしく同居人と休みが合致したので、馴染みの人がやっているという近所の居酒屋へ飲みに行く。馬鹿みたいにでかいたこぶつと赤ウインナーをアテにビールを二杯。
 
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壁に貼ってあるサインなどを見渡していると、棚のところになにやら文字が書かれた紙が貼ってある。
 
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人酒をのみ
酒酒をのみ
酒人をのむ
 
なんとすごい言葉だろうか。人という器に酒が注がれていき、やがてそれが満たされると(例えばコーヒーが入っている状態のコーヒーカップのことを単にコーヒーと呼称するように)酒が酒を飲み、しまいにはその酒に人の部分が飲まれる。深淵を見つめるとき、などと大仰なことを言っているニーチェが馬鹿みたいではないか。そんな難しいことを言っているからツァラトゥストラの声に愚かな民衆は耳を傾けようとしないのだ。
しかしこの言葉は凄まじい。例えばこれをこう書き換えることもできるわけだ。
 
人歌を唄い
歌歌を唄い
歌人を唄う
 
なるほど、と思う。「人歌を唄い」では、主格は人にあり、歌はあくまでも唄われるものであり、唄うという動詞の対象としての目的語だが、やがて歌が人の中に入り込んでいき、その歌が歌を唄う状態になる。
そしてしまいには歌に自分が唄われるのだ。この感覚はとてもよく分かる。
この言葉に出会えただけでもこの店に来た甲斐があったというものだ。
 
 
そして、帰ってきてまた家で飲む。なんだか今週はずっと飲んでるぞ、おい。腕によりをかけて料理を作る。この日のあんかけレタスチャーハンは本当に神がかっていた。
気づけば同居人は酒を手にしたまま酔いつぶれていたが、俺は流れてくるジッタリン・ジンの音楽に確かな青春の痛みというものを感じていた。

祝サブスク解禁! Syrup16g全アルバムレビュー②『delayed』『HELL-SEE』

祝サブスク解禁、Syrup16g全アルバムレビュー、前回の記事はこちら。
 
 

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『delayed』
 
 2002年9月25日発売の3rdアルバム。
五十嵐という男はものすごく多作で、五十嵐が書きためていた・あるいは過去にデモとしてリリースしていた音源を寄せ集めた、名前の通り「遅れてきた」楽曲ばかりが収録されています。
 
「センチメンタルな恋はどうしようもなく破綻してくもんで」と唄われる「センチメンタル」、オリエンタルなリフと「左手あげて横断歩道渡っているの誰」という歌詞がそこはかとなく不気味な「Everything is wonderful」、脱退したベース佐藤に捧げられたというミスチルでいう「Tomorrow never knows」的立ち位置(Bankbandにもカバーされてましたね)にして一般的に大名曲として認知されている「Reborn」、BUMP藤原がコーラスで参加している「水色の風」、「君はひとりぼっちでいつでも空とばかり話してた」と、のちの「吐く血」などにも見られる病に罹患した対象を見つめる描写の萌芽が見られる「Anything for today」、「夢を見せて 土曜日の午後に」と『COPY』の「土曜日」のイメージを強化する歌詞が冒頭に現れる、個人的にこのアルバムで一番好きな「サイケデリック後遺症」、1番最初に作られたデモテープの2曲目にも収録されているこれもメロディが美しい、そして五十嵐らしいネガティブな歌詞が炸裂する「キミのかほり」(まさにデモテープの1曲目に収録された「翌日」と「キミのかほり」の二面性、落差こそが五十嵐という男を象徴しているように思います)、「落ちない飛行機で君の街まで飛んで行けたなら」という歌詞が凄まじい「Are you horrow?」、ライブでの定番曲、「アブノーマルなことして吐き気もよおしてたりして 人間嫌いなフリして 本当に嫌いだったりして」と五十嵐の二面性が露わになるハードでダークな「落堕」が終わると最終曲(正確には一番最後に弾き語りバージョンの「Reborn」がボーナストラックとして収録されているのですが)、最後のデモテープ『Syrup16g03』の2曲目に収録されていた「愛と理非道」でこのアルバムは幕を閉じます。
 
愛と理非道
双方 日常と非日常に依存し
腐敗していく

 

「リビドー 愛 嘘 刹那」と唄われた『COPY』収録「(I can’t)change the world」に通じる歌詞が見受けられます。
で。
 
これは完全に個人的な話なのですが、昔ある人がこの曲の「希望は誰かの手だ 俺は持っていない」という歌詞を取り上げて、「希望は誰かの手にある、という意味で取るのが普通だろうけど、もしかするとこれは『誰かの手そのものが希望』なのではないだろうか」と言っていました。
その時は、まあ解釈っていうのは人それぞれで面白いからいいよね、と思いつつも、しかしやはりその意味合いではここは絶対に取らないだろう、と思っていました。
 
しかし、前回のレビューを書いている時に気づいたのですが、前アルバム『coup d’ Etat』の同じく最終曲「汚れたいだけ」で、「探してみたってもう 見つけられるのは自分の手」と五十嵐が唄っていることに気づきました。
この発見により、もしかすると五十嵐はやはり「誰かの手そのものが希望」だというニュアンスを込めて、「汚れたいだけ」と対応させるためにこの楽曲をここに意図して配置した可能性があります。
このことに気づいただけでも今回のレビューに価値がある、というくらい大きな発見でした。
 
さて、今回のレビューはここまで一気に駆け足で来ましたが、楽曲の質は佳曲揃いながらやはり過去楽曲の寄せ集め、ということで、けだるいムードは一貫しているものの、コンセプトらしきものは特に見当たらず、解説するところはあまりありませんでした。強いて言うならば五十嵐が自分のトラウマとあらためて向き合ったのがこのアルバムです。
 
『COPY』『coup d’ Etat』と進んできた五十嵐のストーリーは次の『HELL SEE』に繋がります。
 
 
 
 
 
『HELL SEE』
 
 2003年3月19日発売。「健康的」と「地獄を見る」がかけられた15曲入り1500円のこのアルバム(五十嵐曰く「1曲100円でいいから聞いてくれ)」はローファイな音作りが特徴的で、このアルバムを推すファンも多いです。もちろんこのアルバムも大名盤。家に篭る、を省略したとされている「イエロウ」から始まります。
 
「早速矢のようにやる気が失せてくね」と出だしからいきなり嘯き、ネガティブな言葉遊びを駆使しつつ、それでもさりげなくサビで「死体のような未来を 呼吸しないうたを 蘇生するために なにをしようか」と、アルバムのコンセプトを提示してくれます。
こうして、引き篭った家の中から、「薬でいつも酒気帯び」で「寝てらんない」五十嵐の戦闘は始まります。
次曲「不眠症」。
 
この際だ このまま全てブチ撒けると
この間俺はまたでかい過ち犯したんだ
それはただ時が経ちゃ忘れてく問題だろうか
それはないな 今もまだ空っぽのまんまで生きてるよ
 
ここで、五十嵐が眠れなくなった原因、「イエロウ」することになった理由が述べられます。
汚れたいだけと願った男は望み通りに汚れ、そして汚れたことに対する自己嫌悪という葛藤の地獄に自身を再び突き落としたのです。
3曲目はタイトル曲「Hell-See」。適当なソングライターも煙草に火をつける」三人称的な視点から自身を捉え、「戦争は良くないなと隣のヤツが言う」「健康になりたいなと隣のヤツが言う」と、『coup d’ Etat』で多用された大現実と小現実の対比が行われます。
 
 
TVの中では込み入ったドラマで彼女はこう言った
話もしたくはないわ そこだけ俺も同意した
 
三人称的な視点に自身を仮託しているところから紐解けば、これこそ五十嵐が犯した「でかい過ち」であり、おそらく「君」ともう一度再会する、あるいは連絡を取るような機会があったのではないでしょうか。二回目の「話もしたくはないわ」の後にはこう唄われます。「それなら最初にそう言って」。
 
4曲目は言葉遊びのセンスが炸裂する、個人的に大好きな「末期症状」。
 
寂しさを振りまいて サービスし過ぎるのが余計だ 危ない
寂しさをフリーマーケット セールし過ぎるのが不快だ 危ない
 
今までずっとこの部分は五十嵐自身のことを唄っているのだと思っていたのですが、「セールし過ぎるのが不快だ」という表現からは誰かに対してこう感じているのだと読み取れます。その誰かとはやはり失った「君」のことである、とは穿ちすぎでしょうか(しかし「幽体離脱」や「汚れたいだけ」を聴いている限り、五十嵐のことをかなり振り回す女性であることが推測できます)。
「ちゃんとやんなきゃ素敵な未来がどこかに逃げちまうのかなあ」と唄ってはみるのですが、「死体のような未来」と冒頭で唄っているように、やはり最後には「はじめからねえだろう ねえよ」と絶唱されてこの曲は幕を閉じます。
 
5曲目は「ローラーメット」、タイトルは睡眠導入剤の「ロラメット」から。
TVで狂ったフリをするロックスターをコケにする、という歌詞もさることながら曲調も軽く、あまり繋がりはないように思えますが、「素敵な歌=ふざけた歌=あなたの歌」と同じ場所に配置されている歌詞が変わっていくところに五十嵐の皮肉を感じます。
そして次の曲「I’m 劣性」では「TVなんてバースト」と、あなたの歌を唄っていたロックスターをTVごと葬り去り、「世界の心臓を 鼓膜の振動で感じるだろ」(ロックスターよりも)劣性である自分自身が唄いはじめます。
ネガティブながら笑ってしまうような歌詞も増えてきます。「バイトの面接で君は暗いのかって 精一杯明るくしてるつもりですが」はSyrup16gファンみんなが好きな歌詞でしょう。
 
7曲目は一転、美しく明るく、それでいてどこか切ない曲調の「(This Is Not just)Song For Me」、自分に対する唄であり、今はそうではない。というタイトルの意味は歌詞を読めば理解できます。
「つま先で蹴飛ばして 石ころ転がして 昨日覚えたばかりの歌を口ずさんで 家に帰る」、石ころ転がして=ロックンロールですね、しかし「そんな魔法が今はなぜ手品みたいに思えるのだろうね」、昨日覚えたばかりの大好きなロックンロール・ソングという魔法でさえこの地獄には通用しません。
それでも 「あきれるくらい何度も 確かめるように何度も 昨日覚えたばかりの歌を口ずさんで」まるでロックンロールの魔法を取り戻そうとするかのようにして五十嵐は家に帰ります。泣ける。
 
そして五十嵐はロックンロールの魔法を借りて、でかい過ちを肯定しようとします。「月になって」。
 
気にしてないから 気にしてないなら
側にいるだけ そこにいるだけ
 
君がいないなら 僕もいないから
側にいるだけ ただの言い訳
 
子供じゃないから 言葉じゃないから
側にいるだけ 今はこれだけ
 
君に間違ったことはなく 道を誤ったこともなく
ありのままなにもない君を見失いそうな僕が泣く
 
構成もシンプルで、いわゆる必殺の曲ではないのかもしれませんが、とにかく曲が良い。
 
掴めそうで手を伸ばして
届かないね 永遠にねえ

 

しかし、やはり君に届くことはなく、五十嵐は自分自身で幻想を見破り、現実に戻っていき、君が月になったように、自身もついに人間であることすら放棄します。
ダークなコーラスとシンプルなリフから始まる大名曲「ex.人間」。
 
汗かいて人間です 必死こいて人間です
待ってる人がいて それだけでもう十分です
 
愛されたいだけ 汚れた人間です
卑怯もんと呼ばれて 特に差し支えないようです
 
道だって答えます 親切な人間です
でも遠くで人が死んでも気にしないです
 
と、タイトルとは裏腹に次々と人間であることが示されていきますが、それならば一体どうして「ex.」なのかと言えば、「少しなんか入れないと身体に障ると彼女は言った」という歌詞に答えがあります。身体に障る、というなんらかの病を示唆するこの彼女と、後の「吐く血」に出てくる「内科で診てもらえない病気の主(=彼女と知り合ってもう半年になる)」はおそらく同一人物であり、さらに、後の「シーツ」という楽曲タイトルから考察するに、なんらかの精神的疾患、欠落を抱えて五十嵐が入院したことこそが五十嵐に「ex.」と言わしめているのです。
 
さらに次のひたすらに暗く重たい「正常」の「絵本はもうおしまい 迷路はもう行き止まり 正常はもうおしまい 正常はもう行き止まり」という歌詞もまた、「ex.人間」という言葉の重さを強化します。
そして月(=ツキ)を掴み損なった五十嵐は「謝ってもいない 反省もしない全然 ずっとここで待っている 後悔もない 鑑賞もくだらない 君をここで待っている」(もったいない)と、象徴としての部屋(あるいは病室)で「つまんないから帰って」(Everseen)と来訪者を拒み、彼女を待ち続けることにします。
しかしそこにあるのはもちろん「Everseen」。『COPY』『coup d’ Etat』で提示された問題を何一つ解決できていないのだから当然です。
 
13曲目は先述した「シーツ」。「痛み堪えて 痛み殺した 次第にMy body’s end この部屋で待つ」と淡々と唄われる、個人的にかなり好きな曲で、
 
死にたいようで死ねない
生きたいなんて思えない
頭悪いな俺は
自意識過剰で

 

という心情の吐露がたまらなく自虐的で哀しくて好きです。
この楽曲でも部屋で待つことが唄われ、次の14曲目「吐く血」では、「内科で診てもらえない病気の主」である女性を自身の鏡像として五十嵐が見立てていることが「貴方は私と似ているね そう言って笑った」という歌詞からも容易に推察できます。
しかしそうすると、「血を吐きながらもどっかできっと生きてる」という歌詞に、業のような凄まじさを感じますね。
 
そして迎えた最終曲「パレード」では、
 
さようなら みなさま
ありがとう みなさま
パレードが終わったら
風に舞う十字架

 

と、五十嵐至上最も死に接近しながらも、
 
いつかはそんな日々が
訪れる気がしても
ひっそりとここで夢を見るさ

 

と、先ほどの「血を吐きながらもどっかできっと生きてる」という言葉に呼応するかのように、ギリギリのところで踏みとどまります。
それはなぜならば、
 
近くに来たらノックして
ココロのトビラをノッキン・ドア
たまに開かないと不信感?
君に会う為に待ってんだ

 

ということであり、こうして見事に『COPY』が起こした『coup d’ Etat』は失敗、五十嵐は「君」の呪縛から解き放たれずに『HELL SEE』、地獄を見るハメになります。
 
『HELL SEE』は、三たび自らが抱えている問題を解決し損ねたアルバムであり、まるで映画『バタフライ・エフェクト』のように様々なアプローチを試しながらも結局五十嵐は地獄から抜け出すことができません。
 
 
 
さて、次回は『パープルムカデ』『My Song』『Mouth to Mouse』、Syrup16g中期〜後期のレビューです。ここで五十嵐に大きな変化が訪れます。
 
ぜひこのレビューはアルバムを聴きながら読んで下さい。五十嵐の魂の葛藤、あるいは意識の流れがよく分かると思います。