真白きだけの花火よ霞草

三十路で始めるロックンロール。いまだ売れていない天才(自称)バンドマンが語る音楽、文学、哲学、詩、料理、日々、あるいは旅。

5/7

とにかく家を越してきてから新しい物を買いまくっているのは、俺も三十路を迎えて令和より一足お先に一周年、そろそろ地に足を着けて生活をしていかんとなあ、と考えているからで、というのも、昔は劣悪な環境、あるいは感情に己の身を置くことで「どうして己はこれまでに不遇なのか、前世はエジプトでピラミッドでも積んでいる奴隷だったに違いない、いつまで俺を苦しめるファラオ野郎」というような怒りで文を書き、あるいは楽曲を創作できていたのだが、歳を重ねていくうちに、例えば酒を飲む、それから怒りが湧いてくる、、、その前に、「ねむい」と思って眠ってしまう、昏倒してしまうからで、思えば生まれ落ちて三十余年、これが家電なら即廃棄物なのをどうにかごまかしごまかし今日まで生きてきたわけで、つまるところ魂そのものを新しく買い直さないといけないな、と思い至ったわけであります。

 

それで、まあ実際に魂を買い直す、あるいはリサイクルする、生まれ変わるといっても例えばスーサイドしてしまったらこの身体、つまりハードがダメになってしまうわけで、どうにかしてソフトを入れ換える必要がある、と思い至ったのが今回の転居であり、どうせ家を引っ越して環境を変えるのならば、今までで一番の好環境にしてみよう、と朝も晩もなく働き倒してマックやら自転車やら(あれ? でも大きな買い物はそれくらいかな)を手に入れ、そして今日ついに作業用の机を手に入れることができました。

 

あらためて自身の家を見直せば、ああ、ゴールドロジャーがすべてを置いてきた場所ってここやったんや。ここがワンピースそのものやったんや、と感慨もひとしおで、早速届いた机の上にマックを置いてこのブログを打ってます。はやくスタバでドヤ顔したいなあ。

 

せっかく手広く浅い知識を持っているのだから、ブログでそのことを発揮したいなあ、と思っていて、例えば

 

月曜日:書評

火曜日:映画批評

水曜日:ディスクレビュー

木曜日:エッセイ

金曜日:週報

 

と、こんな感じで、皆様の辛い平日が少しでもこのブログで癒えるように、、、などとはあまり考えてはいないのですが、ふらりと立ち寄れるバーのような場所にしたいと考えていて、今各コンテンツを鋭意制作中です。つまり書きためてます。

どれも一筋縄ではいかない遊び心を取り入れたいなあ、と考えてます。

比喩ではなく、本当に今エジプトの奴隷くらい働いているので、もうちょっと生活が落ち着いて約束の地カナンにたどり着いたらスタートします。

 

今日は本当に久しぶりのオフで、オフといってもブッキングの仕事があるので全然オフなのではないのですが 笑、部屋を掃除したり、洗濯をしたり、花の水を換えたり、とやることはたくさんあります。

それにしても、普通に生活することがこれほどまでに楽しいものだとは!

それに、こうして最新のものばかり手に入れて思うのですが、世の中本当に大きく変わってますね。今もスポティファイでストーンズの1stをBluetooth経由でスピーカーからかけているのですが、本当、魔法ですよこんなの。

いかに自分が文明から取り残されていた人間だったのか思い知ります。

便利なものはきちんと取り入れていこう、と強く思います。

 

この家は、友人たち、つまり血のつながりのない赤の他人と暮らしているのですが、家を共有すればそれはもう家族なのだな、と、昔は思わなかったことを最近思います。

この家がある程度の広さを持っているので、そういう幻想も共有できるのかもしれません。

結婚したり子供を作ったり、そういう世間的なサイクルからは完全に外れてしまってますが、なんならずっとこのままの生活でもいいや、と思うくらい今の暮らしを気に入っています。

 

 

それで昨日、ツイッターにも書いたのですが、訳あって少しの間公園の管理みたいなことをやっていて、施錠しようとするとフラフラと近寄ってきた痩せぎすで男なのか女なのかわからないバンダナを巻いた少し不気味な人が「トイレ、借りれますか」と苦悶の表情で言うので、「間もなく施錠するのですが、どうぞ。ただしこの暗い道をかなりまっすぐ行かないとたどり着けないですが大丈夫ですか?」と答えると、頷いて歩いていったのですが、全然帰ってこないのでもう施錠しようとすると(中からは出られる仕組みになっています)「ヤバい! ヤバい!」と声が聞こえてきて、ぎょっとした俺が振り返ると、さっきの人がフラッフラになりながら「引き込まれる、闇に引き込まれるぅ〜〜〜!!!」と叫びながら帰ってきて、「どうされました!? 大丈夫ですか!?」という俺の声を完全に無視してそのまま逃げ去っていった事件があったのですが、それにしても闇に引き込まれる、とはなんと恐ろしく的確な表現だと思いませんか?

ブラックホールしかり、闇とは「光がない」というよりも、光を吸収してしまうような性質があるのだ、と叫び声と共に一人公園の闇に取り残された俺は、背筋を悪寒に震わせながらそんなことを考えていたのでした。

 

闇はその暗い顎を静かに開いて、自身に敬意を抱かない哀れな愚者を自身の内に引き込もうと今日も待ち続けているのです。

 

確かにニーチェの言うように、深淵を覗くことは自身もまた深淵に覗かれるのだということを、今以上に強く意識に置いておく必要があります。

仰げば尊し我が師の恩 さよなら、遠藤ミチロウ

THE STALINの遠藤ミチロウが亡くなった。
 
容態があまり良くない状況であることは知っていたが、それでも俺はミチロウは死なないと思っていた。
ルー・リードも死なないと思っていたし、デヴィッド・ボウイも死なないと思っていた。伝説のポケモンみたいに、永遠にロックの神として怒り続け、生き続けるのだと思っていた。
 
いや、ジョンが死んでも作品が生き続けているように、、、などと月並みなことを書くが、確かにロックの神として彼らはこれからも生き続けるのだろう。
もちろんジミヘンだってマーク・ボランだってカモンベイベー・ライト・マイ・ファイアーだって生き続けるはずだ。
 
そんなことは分かっているが、確かにこのイデアを模倣した、我々が呼ぶところの現実世界に於いて遠藤ミチロウという「素材」と「形相」が失われてしまったということ。
その報せを聞いた時には、ただ、そうかあ。と口の中でもごもご呟いただけだったが、Twitterの文面で見た時、やはり涙をこらえることができなかった。
 
 
遠藤ミチロウは俺の英雄だった。
 
 
誰もが同じ音楽・同じTV番組・同じ芸能人の話しかしないことにイラつき、中学も高校も授業をサボっては立体駐車場に寝っ転がり、煙草を吸いながら一人本を読むことを「個人的テロ活動」と称していた愚かな俺の内に秘められた今にも爆発しそうな憤りは、当然のようにTHE STALINを見つけ出し、出会うことになるのだった。
 
俺が一番最初に買ったCDは『STOP JAP』と『虫』が一緒になったアルバムだった。
俺にロックを教えてくれた「ぼくの好きな先生」から、とても過激なバンドだと聞いていた。
情報から得られる妄想の音だけがあの頃すべてだった。
ボリュームを確認し、プレイヤーの再生ボタンを押し、一曲目が流れ始める。
 
そして、あの誰もがやられたであろう究極のフレーズが、俺の耳にも飛び込んできたのだった。
 
なんでもいいのさ 壊してしまえば
おまえはいつでもアナーキスト
壊れてゆくのはてめえばかり
ぬかみそになってオポチュニスト
 
吐き気がするほどロマンチックだぜ

 「ロマンチスト」

 
一撃でしびれた。たまらなくしびれた。冷たい言葉の中に、知性と燃え盛るパンクの炎があった。
 
おいらは悲しい日本人 西に東に文明乞食
北に南に侵略者 中央線はまっすぐだ
 
ほらおまえの声きくと
頭のてっぺんうかれ出し
見分けがつかずにやり出して
帝国主義者がそこらで顔を出す
 
おまえはいったい何人だ

 「Stop Jap」

 

私の病気は玉ネギ畑 どこまで行っても玉ネギばかり
むいてもむいても玉ネギバランス
私のベッドに白い花が咲く
「玉ネギ畑」
 
吐き溜めばかりが花開く
アメリカばかりがなぜ赤い
愛するためには嘘がいる
そうだよ オレもペテン師

 「下水道のペテン師」

 

世界の果てまで オレをつれていってくれ
つぶれていってもいいんだ 失うものは何もない
冷たい水晶を 今夜おまえと食べよう
のどが切れても かまわないから
 
Oh Oh Oh Stop Girl
いやだと言っても愛してやるさ

 「Stop Girl」

 

おまえはいつまで天才くずれのふりをする
「爆裂ヘッド」
 
 
そして、こういう詩的で強烈なフレイズはパンクの加速度によって振り落とされていき、次の『虫』では、
 
 
天プラ おまえだ 空っぽ
 
「天プラ」
 
遊びたい 遊ぶ女は嫌いだ
「Fifteen」
 
という、ある種、プリミティブな怒りの自由律俳句、とでもいうような歌詞が一行だけ書かれていたりする。
これはどうやら物凄いぞ、と俺はブートレグで『Trash』を手にいれるほどに入れ込み、友人の車に乗って無理やり爆音でTHE STALINを流して海に行くことで、彼らを啓蒙したりもした。
 
十年ほど前、ミチロウが神戸に来るというので観に行った。
ライブが始まり、友人は「前で見ようや」とステージに向かって行ったが、俺はその場に立ちすくんだまま一歩も動けなかった。
 
おそろしかった。自分自身が裏返しになって露わになるような感覚があった。
 
おまえは一人で死ぬのか?
像のように隠れて死ぬのか?
親に見守られて死ぬのか?
恋人に忘れられて死ぬのか?
クスリをやりすぎて死ぬのか?
体中アルコール漬けになって死ぬのか?
つまんない人生だと思って死ぬのか?
サボテンのように砂漠につったったまま死ぬのか?

 

当時の俺は朝から晩までトリス・ウイスキーを飲み続けては、合間にいわゆる「金パブ」、つまりパブロンゴールドを大量に誤飲することによってコデインとエフェドリンがもたらす多幸感の深甚な中毒に陥っていて、もちろんそんな生活が身体に良いはずもなく、便所の壁一面に大量の黒い羽虫の幻覚を見たり、サイゼリヤのメニューからマジシャンのセロのようにフードを取り出そうとしたり、血尿が出たり、 今もまだ続く慢性蕁麻疹が出たり、と廃人コースまっしぐらのウルトラクズ人間だった。
 
そんな俺を、ディランの名曲をミチロウ流に書き換えたあの「天国の扉」が貫いた。
 
死にたくない、と思った。いくぶん甘い破滅への感傷はあったかもしれないが、確かにこのままでは死ねない、と思って涙を流したはずだった。
 
 
 
だから、自分が働いているライブハウスにミチロウが来ることになった時、当たり前だが俺は誰よりも喜んで、そのままラジオにまで出演して滔々と遠藤ミチロウについて話をしたりもした。
 
そして迎えた当日。初めて会話を交わすミチロウ、いや、ミチロウさんは穏やかで、どこまでも優しい人だった。
 
ライブは崇高だった。昔見た時と変わらない、純粋な獣がそこにいた。
 
打ち上げにまでご一緒させてもらい、酒に酔った俺が上機嫌で「伊丹の人間にスターリン広めたの、俺っすから!」と言うと、「えらい!」とあの少しかすれた声でそう言ってにっこり笑ってくれた。
 
それだけで、俺の人生は、ちっぽけな人生は報われる気がした。
 
どこまでも続く一本道の
そのずーっと先の天国あたり
何を見つけたのか それはお楽しみに
キミの言葉が輝いているよ
ちょっぴり羨ましいけど 今日もいい天気!
 
Oh! Just like a boy
まるで少年のように街に出よう

 「Just like a boy」

 
天国ではない。天国あたり。下水道のペテン師でも唄われていたその場所で、ミチロウさんは今頃何を見つけたのか。
キミの言葉が輝いている。言葉は視えないものなのに。いつまでも心に残って、きらきらと輝いていると、そう喩えられて俺たちは、確かにそうだと、言葉は輝くのだ、と頷くことができる。そんな言葉がある。
 
そんな言葉があるのだ、とミチロウさんが教えてくれたのだ。
 
爆音でTHE STALINをかけながら夏の海へと急ぐ俺たちが、あの、なに一つ上手くいかなくて最悪だったはずなのに、誰もがみんな幸せそうに笑っている幻のような青春の一日が、いつでも鮮やかに蘇ってくる。
 
昭和は遠くなりにけり。
 
さようなら、遠藤ミチロウ。
さようなら、俺のパンクスター。
 

4/25

見切り発車で引っ越ししたため、正直もう毎日がバタバタで。

ようやく冷蔵庫と洗濯機が来て生活感が出てきたのはいいのだが、金を稼ぐためにあちこちに顔を出してヘラヘラしたりワケのわからないことに巻き込まれたり、まあ代償として時間を捧げ倒しています。

もういっそ割り切って、四月と五月は金を稼ぐのだと決めると、とんでもないスケジュールになってしまい、こうしてブログに文字を打ち込むのも久しぶりです。

 

ただ日記を書くというのも面白くないので、少しずつコンテンツの案を練っています。でも今は金! 切実に。それとテーブル。家にテーブルないってのは不便だ、、、

 

まあ、なにはともあれ楽しくやってます。ええ、少なくとも気の利いた言葉なんてなにも思い浮かんでこないくらいには慌ただしく、充実した毎日を。

都築響一『夜露死苦現代詩』


夜露死苦現代詩 (ちくま文庫)

 

まあこんなことをあけすけに言うのもなんだが、狂っている人間が好きである。芸術的に狂っている、とかそんなものにはまったく興味がなく、例えば先日新開地のファミリーマートに夜中立ち寄った時の話だが、オッサンが金を払おうとして財布から金を出し、それをレジに置いた時に不要なレシートを入れるあのクリアなケースがオッサンの手に当たって動き、オッサンの足元に落下した。イテ。そう呟いてオッサンがなにか訴えかけるようにレジのこれまたオッサンを見るが、まあそれは残念ながらオッサンの自業自得である。レジのオッサンはなにも言わずにオッサンの出した商品をスキャンし続けた。

するとその冷たい態度に(まあ普通なのだが)突然ブチ切れたオッサンが、「ああ、お前、おい、こら、こらあ! なめとったら殺すぞ? おお、おお!?」と最初60デシベル、後半120デシベルくらいの大声を張り上げてレジのオッサンを脅迫し始めた。

オッサンの後ろにはオッサンが並んでいて、その後ろには俺つまりオッサン、その後ろには中東系の外国人のオッサン、オッサンゲシュタルト崩壊、まあとにかくたくさんのオッサンたちが並んでいて、善良なオッサンたちの気持ちはこの時一つだった。なんでもええからはよせえや。こっちは疲れて並んどんねん。一字一句間違いなく、俺たち善良なオッサンはこう思っていた。あと、ああいう迷惑な人間は死んでくれ。ひどいようやけど。とも思った。ユングのシンクロニシティという概念の実在が証明された瞬間だった。

さらにシンクロニシティの実在を裏付けるかのように、先頭のブチ切れオッサンは振り返ると、後ろに並んでいる俺たち善良なオッサンたちに近づいてきて、「なんじゃ、おお、こら、殺すぞ! 殺すぞ!」と叫び、そのままゆっくりと開く自動ドアに蹴りを入れて外に出て行った。

脱法ドラッグでバッドに入ったアニマル浜口みたいだった(見たことないけど)。

前のオッサンが俺に振り返り、たまらんなあ。という苦笑いを浮かべたので、俺もたまらんなあという苦笑いを浮かべると、レジのオッサンが、いやホンマに。という顔を浮かべていた。

一人の狂人が俺たちに団結と調和をもたらしたのだ。

 

ここ最近おそろしく平和な毎日を過ごしていて麻痺していたが、伊丹・稲野(ほとんど尼崎)に住んでいた十代の頃や、十年前の三宮の夜の街ではしょっちゅうトラブルが起こっていた。

そして、ほとんどが飲みすぎた酒のせいだったとしても、俺はよくそういういざこざに巻き込まれた。

そんな時、つまり危険を感じた時こそ、どこかゲームのように客観的に出来事を見つめて泰然自若に振舞おうとする癖がついた。

のめり込むと、自分の恐怖に飲み込まれてしまうからなのだろう。

 

人間がいて、感情がある。しかし、狂気に飲み込まれるということは、自分が自分を喰らい尽くし、塗り潰すということで、これほどおそろしいことはない。

狂気とまでいかずとも、喜怒哀楽、感情に飲み込まれている時というのは、自分が生みだした感情に自分のコントロールを乗っ取られているわけで、我を失う、などと言うわけだが、それならば我が失われている時に代わりに我を操っているものは一体なんなのか?

 

そういうことを考える人間が、この本をぱらりとでもめくってしまったら、そりゃあ飲み込まれるしかないワケで、まず開いた第一章、介護助手として働く人が聞いた痴呆老人たちの言葉が紹介されていて、これが稲妻のように美しいフレーズばかりだったのだ。

例えば、

 

目から草が生えても人生ってもんだろ

 

俳句調の、

 

あの夏の狸の尻尾が掴めなくって

 

あるいは、元・電気屋主人が言う

 

オムツの中が犯罪でいっぱいだ

 

という言葉はその逸話もまた凄まじい。

 

なんと彼のオムツの中にはギャングが集結していて、麻薬売買を行っているので、オムツの中に盗聴器を仕掛けているところだと言うのだ。イヤな予感がして、直崎さんがオムツをあけてみれば、中には三日間も出ていなかった便があふれかえり、補聴器がその中にしっかり埋まっていた……。

 

と、こういうことを書くと、精神的におかしい人を馬鹿にしているのか、などと昨今の日本では言われかねないのだが、まあそんな馬鹿は放っておいて、この元・電気屋主人の一見意味不明な言葉は、確かにオムツ内における現実的なピンチとリンクしていて、その現実が彼の中で狂気を通じて変容していく様に興味が有るだけだ。

 

読んでいるだけで眩暈がしそうな質問に答え続けている、ネットで有名な林先生のコラムを読んでいると、病識はないが病感はある。という言葉が出てくる。

 

kokoro.squares.net

 

このとんでもない質問の内容には触れないが、つまり病気だと思ってはいないのに、どこかで自分は病気かもしれない。と感じている状態がある、ということだ。

 

封じ込められた本来的な自分自身の声が、助けてくれと救いを求めている。しかし今や乗っ取られた正気、乗っ取った狂気を通じてしか、外部に語りかけることができない。

外部の現実と内部の現実に、狂気がねじれを起こしいるのだ。

 

だとするならば、末期癌の老人がモルヒネの幻覚の中で口にした、

 

あんた、ちょっと来てごらん。

あんな娘のアゲハ蝶が飛びながら

どんどん燃えてるじゃないか…

 

 

という言葉は、一体どんな内的現実が変容したのだろうか。

そして、これよりも美しく壮絶なイメージを、一体何人のミュージシャンが紡げるのだろうか。

 

 

全体的にとても興味深い本なのだが、やはり第一章と、それから死刑囚の俳句を紹介している第七章が頭一つ抜けて面白い。

 

綱よごすまじく首拭く寒の水

 

叫びたし寒満月の割れるほど

 

キラメルで蝿と別れの茶を飲んだ

 

こんな俳句たちははっきり言って空前絶後で、思わずううむと唸ったあとで、お前は果たして生を、ここまで全うしているのだろうか? あの最悪のトラブルだけがお前を取り巻いていたあの頃こそがお前の人生で最も輝いていたのではないのか? などという自身の言葉に首を振り振り、俺はもう狂気になど飲み込まれやしない、そんなギリギリのフチに降りていくにはあまりに歳を重ねすぎた、長生きをするさ、と思いながら、冬から春に移り変わろうとする朝の料理屋の静けさを胸いっぱいに吸い込んで、それから、お、思いついた、とひねった一句。

 

鍋底の鰤の目にも仏宿る

 

とか言ってね。まあなんとかね、上手いことね、俺も生きていきますよ。野望はまだまだ燃えてますよ。お粗末様でした。

 

 

4/8

例えば十五歳の時に作った曲の中に「愛してる」という歌詞があったとする。その曲を六十歳になって歌ったとする。この時、歌詞を変えない限り、もちろん「愛してる」という言葉は同じだが、そこに堆積した時間は違う。差し引き四十五年分の歴史がそこに折り畳まれている。

 

だから必ず響き方も違う。愛してる、たったこれっぽっちの言葉の中に、自分を通り過ぎていった様々な人や出来事が封じ込められている。

磯崎憲一郎『終の住処』

俺が住んでいるこの街、湊川及び新開地・その周辺は、三宮が発展するその前にはかつて神戸の中心地だったらしく、現在でも至る所にその名残が散見されるのだが、最も老朽化が進んでいるのは街を歩いている人間で、その大半がおそらく齢六十前後の高齢者で、杖をついていたり、そんなものは必要ないのか堂々とびっこをひいて歩いていたりする。

 

が、しかし死にかけているはずの彼ら・彼女らはその実とてもエネルギーに満ちていて、挨拶を交わしたり、今も活気溢れる東山商店街で買い物をしたり、パチンコに勤しんだり、真昼間から酒を飲んだり、このご時世だというのにくわえ煙草で肩で風を切っている。

 

大声で奇声を発している人間を見かけるのもしょっちゅうで、今日も自転車を漕いでいると道の反対側で「おお、こらぁ! 殺すぞ、ボケ、おお! なんじゃ、おお!?」とものすごくでかい声を上げながら一人で虚空に突進しているおっさんを見て笑ってしまった。

 

そういう諸々の様を見て、ふと俺はこの街に越してくる前に読んだ磯崎憲一郎の『終の住処』を、そのタイトルを思い出した。

 

 


終の住処 (新潮文庫)

 

なんの説明もないまま突如挿入される意味があるのかないのか分からない謎のエピソード(沼の場面で現れるヘリコプター)、あまり改行されることもなくびっしりと埋められてゆく余白、突然妻と十一年間話すことがなくなる、というようなことを捕まえてマルケスの影響だと言うのは易しい話で、水平的な時間軸、つまり過去→現在→未来というのは一見不可逆なものに見えるけれどもそうではなく、これを一匹のウロボロスだと見立てるならば(俺が勝手に見立てたんだけど)、未来が過去のしっぽを咥えることによって循環構造になるのではないか、とそういう恐怖が書かれている。

 

植物の種子のうちに草が芽生え、花咲き誇り、やがて枯れる可能性が内包されていることをよく見つめるがいい、というようなことをシュタイナーという神秘学者が言っていたが、結婚という種子にやがて崩壊というものがすでに含まれているのだとすれば、妻が話さなくなったのは崩壊というものに対する先取られた復讐であり、なぜ崩壊が起こるのかというと、主人公は結局のところなにも見えていなかった、つまるところ彼が見たと思っていたのは自分の考えだけであり、彼が目を向けるべきだったのは「目の前の両開きの扉が開き、まぶしい光が射した」、太陽の方ではなく、「自らの力で銀色に輝き始め、不思議なことに雲よりも近く手前にあった」月の方だったのだ。

 

いくつもの短い、詩的な物語(レシ)の積み重ねでできている、と言ってもよいこの小説を読み終えて、自らの人生を振り返る時、よく考えれば負けじ劣らじと謎だらけで、俺は今もなにかを見落としているのかもしらん。しかしそれは一体なんなのか分からず、諦めて誕生日にもらったジンをちびっとだけ飲んだ。

俺もやがてこの土地に沈むのだろうのか。終の住処。破滅の街。

 

大切であればあるほど、近くにあればあるほど対象は見えなくなってゆく。

あれほどくっきり果実だと分かったその輪郭も消え、今やぼんやりとした色彩だけがこの目に残るのみだ。

しかし愛し抜け。安心しろ。うつつを抜かせ。そしてやがていつかそれを失った時にこそ、お前はお前が手にしていたものの輪郭を再び見つけるだろう。

4/7

朝から書き物をして、勉強をして、仕事をするが捗らず、本を読み、ギターとベースを弾いていると晩。

友人と鍋を囲み、酒を飲むも、ほどほどまでもいかない、明らかに飲んでいないよなあ、というくらいで打ち止め。

ひどく穏やかな一日。

明日もやることをやろう。